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西日本に偏っていた官約移民
柏木 史楼

 日本・ハワイ両国間の合意による第1回ハワイ官約移民は1885(明治18)年1月、944人が渡航しました。その内訳は成人男性682人、成人女性164人、子供98人でした。当時、農村は全国的に凶作であったため、全国から多くのの応募があったようです。その中から渡航を許された者を出身県別に見ると、山口県420人、広島県222人というように、この両県出身者だけで64%を占め、特に山口県は1県だけで44%を占めていました。また、山口県の中でも、大島郡、いわゆる周防大島からは約300人が参加しています。この島からは以後、約10年間で3900人が官約移民でハワイに移住、後に周防大島は「ハワイ移民の島」とさえ言われるようになります。

ロバート・アーウィン

 このように、地域的な偏りが出た大きな理由は、官約移民を実現させた初代外務大臣・井上馨の存在が大きかったと言えるでしょう。井上は長州(山口県)出身で、維新前は一時、志道聞多と名乗っていました。幕末の1862(文久2)年には、高杉晋作らとともに東京・品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしたほどの攘夷派でしたが、外務大臣に就任してからは、幕府が締結した欧米列強との不平等条約改正のため欧化政策をとり,いわゆる鹿鳴館時代を現出させた張本人です。そのころは積極的に西洋人との親交を深めていましたが、その一人が官約移民の実現に貢献したハワイ総領事兼全権公使のロバート・ウォーカー・アーウィンです。

 アーウィンはアメリカ独立宣言に署名した最初の一人、ベンジャミン・フランクリンの直系5代目の子孫にあたります。そして、アーウィンは日本人のいきと結婚し、これが日米間初の正式な国際結婚と言われています。アーウィンは東京で死去し、彼の墓は東京の青山墓地にあります。

初期の移民家族

 井上馨は官界に身を置きながら、三井財閥の最高顧問をしたりして、影の大番頭とさえ陰口を言われていたほど、三井財閥との関係が深かったのです。後に三井財閥の本当の大番頭となる益田孝とは、共同で先収会社を設立し、この会社は後に総合商社・三井物産に発展していきます。この先収会社は輸出入のほかに、山口県をはじめとする各県の地租引当米の販売を担当するなど、米の売買を行っています。官約移民の募集の実務は、益田孝が総指揮を執ったと言われています。官約移民の参加者が山口県や広島県に偏ったのは、井上や益田の意向があったということができます。

 ハワイ官約移民は、1894(明治27)年の第26回船で最終となりますが、その間、約2万9000人がハワイに渡りました。そのうち、約2割が女性だったようです。移民船の回数が増えていくに従って、移民の出身県は多様化していきますが、それでも広島、山口、熊本、福岡など西日本の各県が多数を占めていました。これらの各県の指導者がハワイへの移民を積極的に奨励したためでもあったようです。

移住当初の住宅

 官約移民の初期の給料は、食費などを合わせて月額15ドルで、給与面では当時としてはけっして悪い条件ではなかったようです。契約期間3年間を満了して帰国した者は、ある程度のまとまったお金を持って帰れたようですが、日本でのインフレの進行によって貨幣価値が下がり、それに反比例するように、契約期間が満了しても日本へ帰国する者が減少していくようになりました。

 このように収入の面では、当時の日本の物価が安かったこともあって、当初は悪くはなかったのですが、労働環境は良いものとは言えない状態でした。移民たちはハワイの各プランテーションに配属され、早朝から夕暮れまで長時間労働を強いられました。プランテーションの移動の自由は与えられず、住居も雑居同然のキャンプ生活が多かったようです。しかし、官約移民は政府間交渉によって始まったものですから、厳しい労働条件とはいえ、日本政府の手前もあって、ある程度の歯止めはあったようです。実際に、日本の外務省からは移民監督官が現地に派遣されていました。

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 そうした移民監督官の一人として、立石斧次郎、通称トミーという人がいました。トミーは日光奉行も務めた中級の旗本家の次男として生まれ、13歳の時に幕府の許可を得て、伊豆下田でアメリカ総領事のハリスや通訳のヒュースケンなどから英語を習っています。1860年に幕府が遣米使節団を派遣した時、トミーはオランダ語の通詞として使節団に加わった叔父の養子として無給通詞見習の名目で同行を許されました。トミーは乗り込んだポーハタン号の船内でアメリカ人の船員たちと気軽に会話を交わし、語学に磨きをかけました。トミーという愛称も、その時、船員から付けられたものでした。使節団の中で最年少の16歳、使節団そのものがアメリカで異常なほどの関心を呼んでいたうえに、物怖じしないトミーの快活さがアメリカ人の間で爆発的な人気を集めました。当時、社交界で流行していたポルカというダンス曲の新曲に『トミーポルカ』という名が付けられるほどの寵児となったということです。

 使節団は訪米を終わると、喜望峰経由で日本に帰国しましたから、ちょうど世界を一周したことになります。トミーは帰国後、17歳で幕府の通詞に任命され、ヒュースケンが攘夷派の浪人に殺害されたためにアメリカ公使館の通訳も務めます。また、トミーは英語を学ぼうとする日本の若者に教えていましたが、その一人に前述した益田孝がいました。そのほかにも日本人最初の医学博士となった三宅秀や、津田英学塾の創設者・津田梅子の父親、津田仙などがいました。

 明治維新後、遣欧米使節団が派遣されますが、トミーは通訳(2等書記官)として同行します。ところがアメリカ滞在中に通訳を罷免され、工部省7等出仕に格下げとなってしまいます。

 そんなことがあってか、帰国後は退官し、一時、北海道開拓を目指しますが、これにも失敗して帰京、1887(明治20)年2月に外務省のハワイ移民監督官に任命され、ハワイに家族ともども移住します。赴任地はホノルルから船で一昼夜かかるククイハイレのハマクワという所だったそうで、移民監督官の仕事の合間には、ニワトリを飼い、ナスやタロイモなどを栽培して自らも農業を営んでいたということです。しかし、89年2月には退官して、帰国してしまいますから、その任期はわずかに2年間でした。その後、トミーは大阪控訴院の通訳官に任命され、66歳ごろまで勤めていたそうです。トミーが移民監督官としてどのような役割を果たしたのかは伝わっていませんが、移民監督官としては異色の人材であったといえるでしょう。


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