「明石」といえば、兵庫県の明石市(神戸市の西隣)がすぐに思い浮かびますが、やはり明石町は明石市とは深い関係があるようです。
一説に、播磨明石(現在の兵庫県明石市)の漁師が当地に移住したからだと言います。また、他説では対岸にある佃島を淡路島に見立てると、明石町の前浜が「明石の浦」にそっくりだったことからだとも言います。どちらが本当なのかは現在でははっきりしませんが、明石の浦について、若干補足しておきます。
源氏物語の巻五『若紫』に「明石の浦」の説明があります。『近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほことに侍れ。何のいたり深き隈はなけれど、ただ、海の面を見渡したるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびかなる所に侍る』とあります。最後のほうだけを現代文に訳せば、「珍しいほど他所とは違って、広々とゆったりとした所だ」ということになるのでしょうか。傷心の光源氏が保養するにはふさわしい土地だというわけです。「明石」は万葉の時代から歌枕として、よく知られていました。
江戸時代の絵地図で明石町沿岸(江戸時代は鉄炮洲と呼ばれていました)を見ると、和歌の浦を彷彿(ほうふつ)させるような景観をもっていたように読み取ることができます。しかし、江戸時代の明石町は、現在の明石町の南西端の極く一部、現在の明石町14番街の半分以下でしたし、その明石町前浜からは、佃島は斜め左方向に見えるだけで、通常では佃島を対岸として見ることはできなかったはずです。むしろ佃島を対岸に見えたのは、明石町の北隣・十軒町よりさらに北側の船松町だったはずです。そういうことを考えると、播磨明石の漁師が移住したことが地名の由来という説のほうが正当のように感じられます。
ただ、明治維新後、明石の名前が残されたのは、やはり「明石の浦」という全国的な知名度が影響していたのではないかと想像されます。