江戸時代の明石町は先述したとおり、本当に狭い町域(道路に囲まれた片側町)でした。現在の築地七丁目にあるあかつき公園は、当時は三角形の入り江になっていて、その南西端に明石橋があり、その東詰が旧明石町だったのです。明石橋は現在の明石町ポンプ場の前あたりになりますが、旧明石町の町域はそのポンプ場とあまり変わりがないくらいの広さ(絵地図から推測すると、500坪程度)でした。
現在は隅田川の西岸に位置していますが、当時は対岸が埋め立てられていなかったので、東京(江戸)湾に直接、面する形になっていました。幕末の黒船騒ぎで、防衛上から大砲を置くための台場が造られ、明治維新後、徐々に対岸が埋め立てられていき、隅田川が延長されていったのです。
現在の明石町は、明治維新後に旧明石町と十軒町、船松町二丁目の町地と大名・旗本屋敷とで形成されていきます。大名屋敷・旗本屋敷の跡地は、明治元年から一時、外国人居留地となりますが、わずか30年ほどで廃止され、その後、入船町・新栄町・新湊町などの町が成立し、これらを含めて現在の明石町が形成されたのです。
現在の町域を幕末の絵地図に当てはめてみると、8割以上が大名・旗本の屋敷地で、町地は2割以下、しかも旧明石町に至っては町地の10分の1以下でした。
大名屋敷の中で、最も有名だったのは、赤穂浪士で有名な播州赤穂・浅野家の表屋敷でした。ご承知のように江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩が、再び帰ることができなかった屋敷です。幕末には陸奥棚倉(福島)の松平家6万0400石の下屋敷でした。現在の聖路加看護大学の辺りになります。浅野家の屋敷跡ということは、現在の築地川公園前に記念碑に記されています。
次に有名な大名屋敷は、豊後中津(大分県中津)の奥平家(10万石)の中屋敷で、こちらは幕末まで残っています。現在の聖路加国際病院辺りにありました。慶應義塾大学の創始者・福沢諭吉は、この奥平家の下級武士出身で、諭吉は幕末の一時期、この屋敷の長屋に寄宿し、蘭学塾を開いたことから、この地が慶應義塾大学の発祥の地とされています。現在の聖路加国際病院になりますが、その西角の交差点中央に小さな三角形の土地があり、その中に『慶応義塾開塾の地』を記した記念碑があります。
そのほか、幕末近くまで残っていた屋敷は、豊後岡(大分県竹田市)の中川家(7万0440石)、肥後新田(熊本)の細川家(3万5000石・ただし、細川本家からの支給で領地なし)の表屋敷、因幡若桜の池田家(2万石)、そのほか、旗本の屋敷地になっていました。
現在の明石町から湊各町の沿岸は、江戸時代は「鉄炮洲」と呼ばれていました。この辺りが隅田川西岸(当時は海岸)側の最後に埋め立てられた土地で、その埋め立てられた土地が、鉄砲のような形状をしていたことにちなんで付けられた地名でした。もっともこれにも異説があって、この辺りで鉄砲や大砲の試射をやったからだともいいます。