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■学校
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| 慶応義塾開塾の地 |
福沢諭吉の創建した慶應義塾大学の発祥となったのは、明治維新前の中津藩中屋敷で開かれた蘭学塾でしたが、外国人居留地時代にも、いくつかの学校の発祥がみられました。立教大学は、1874(明治7)年にアメリカ聖公会宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が英語と聖書を教える立教学校(私塾)を開設したのが、発祥となります。立教大学発祥地を示す記念碑が聖路加国際病院内に設置されています。
明治学院大学は、1877(明治10)年に開設された東京一致神学校が、発祥となりました。その源流には、日本で初めて英和辞書を編纂したJ.C.ヘボン(ローマ字表記法のヘボン式を発案したことでも有名)のヘボン塾も80年に横浜から、築地外国人居留地に移転していました。
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| 立教大学発祥の地 |
青山学院は必ずしも発祥地とはいえないかもしれませんが、その創立には明石町と深い関係があります。青山学院には三つの源流というものがあります。それは(1)1874年のドーラ・E・スクーンメーカーによる女子小学校(麻布新堀町)(2)1878年のジュリアス・ソーパーによる耕教学舎(築地居留地)(3)ロバー
ト・S・マクレイによる美會神学校(横浜)―です。いずれも米国メソジスト監督教会の宣教師です。(1)の女子学校は77年に築地居留地に移転、海岸女学校と改称します。そして、82年には美會神学校が耕教学舎から改称した東京英学校と合併し、さらに82年に青山に土地を購入、翌年青山に移転し、東京英和学校と改称、94年に青山学院に改称します。海岸女学校も最終的には青山学院に吸収されていきます。なお、これは余談ですが、青山学院は第二次世界大戦前に明治学院に吸収(戦後分離)されますが、これも明石町が取り持つ縁なのかもしれません。
■電信創業の地
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| 電信創業の地 |
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| 初めて科学的な諮問の研究を行ったヘンリー・フォールズ住居の跡 |
あかつき公園が入り江だった東岸に御勘定方島会所(現在の明石町13番)が置かれていましたが、明治維新後、東京築地運上所(東京税関の前身)になりました。この運上所に「傅信(伝信)機役所」が設置され、ここと横浜裁判所とを結ぶ35kmに1869(明治2)年、電信線が開通しました。日本の公衆電気通信の創始です。
■指紋研究の発祥地
スコットランド一致長老教会の宣教師、ヘンリー・フォールズは1875(明治7)年から約12年間、居留地に住んでいました(現在の明石町8番)が、日本人のある習慣に注目しました。印判の代わりに拇印を押すことです。つまり、日本人は指紋が人によって違っていることを知っていて、印判の代用としたということに気がついたのです。そこから指紋の研究を始めだしたのです。フォールズは科学的な指紋の研究によって、指紋から個人の識別ができることを発見しました。指紋は犯罪者の科学的捜査には不可欠なものとなっていますから、フォールズは大きな功績を残したと言えます。
■聖路加国際病院と聖路加看護学校
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| ルドルフ・B・トイスラー医師のレリーフ |
アメリカ聖公会宣教師のルドルフ・B・トイスラーは、1900(明治33)年に24歳で来日、築地外国人居留地に診療所を開設しました。これが聖路加国際病院の発祥となりました。やがて診療所は病院に発展しましたが、関東大震災で焼失してしまいます。33(昭和8年)年に東洋一を誇る病院が再建され、36(昭和11)
年に財団法人聖路加国際メディカル・センターとなります。国際病院として世界的に知られていたこともあってか、東京大空襲の際にも米軍機の爆撃対象から外されたようです。しかし、敗戦後は進駐軍に11年間も接収され、やむなく近在の建物で診療が続けられました。1992(平成4)年、全人医療をめざす画期的な機能をもつ、現在の新病院棟が完成しました。鉄骨鉄筋コンクリート造り、地下2階、地上11階、延べ床面積6万1056u、病床数520床を備え、病床は全個室(シングルケアルーム)という国内では未曾有の病院です。なお、33年に建設された旧病院は予防医療センターとして残されています。
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| 聖路加看護大学 |
なお、「聖路加」とは正式には「せいるか」と読みます。キリストの弟子で医師でもあった聖人ルカにちなんだ名前ということです。
聖路加看護学校は1920()年に、聖路加病院の付属高等看護婦学校として設立されました。27年には看護学校としては日本で唯一の四年制の聖路加女子専門学校として認可されました。戦後、病院と同様、校舎は進駐軍に接収され、その間、東京看護教育模範学院の名で日本赤十字女子専門学校との合同教育を行っています。54年に校舎が返還されると、三年制の聖路加短期大学に改組します。さらに、64年には四年制の看護学部をもつ聖路加看護大学が設立されて、現在に至っています。
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