
| 天正少年遣欧使節団が旅立った長崎港には、世界のクルーズ客船が寄港する |
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前回は中国人、イスラム人による大航海をご紹介しましたが、日本の戦国時代末期に行われた遣欧使節団について紹介します。
それは1582年2月に長崎を出発した「天正少年遣欧使節団」と1613年10月に宮城県石巻市月浦から出発した「慶長遣欧使節団」です。二つの使節団はそれぞれ反対方向からローマを目指し、いずれも当時のローマ教皇に謁見しています。
天正少年遣欧使節団は北九州のキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)、大村純忠、有馬鎮貴(晴信)が派遣したということになっていますが、最近の研究ではイエズス会のアジア巡察師アレッサンドロ・バリニャーノがほとんど独断で決行したものだという説が有力になっています。

天正少年遣欧使節団一行が訪れたリスボン近郊のシントラの王宮
Photo: Jose Manuel |
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天正“少年”遣欧使節団というように出発時、正副使4人は13〜14歳の少年でした。また、同年齢の2人の随員と、彼らの教育係として19歳の日本人青年も参加していました。いずれもバリニャーノが指示して設立された有馬のセミナリオ(キリスト教の初等教育学校)の生徒の中から選ばれています。正副使4人といっても彼らの出自は明らかではないのですが、当時ヨーロッパでは貴族が尊ばれていたため、彼らは日本の王侯の子弟であるとされました。
使節団はスペイン船に乗せられ、インドのゴアまではバリニャーノが随行し、そこでバリニャーノと別れた一行はアフリカ南端の喜望峰回りで1584年10月にリスボンに到着します。恐らく日本人として最初のヨーロッパ到着でしょう。同年11月、マドリードでスペイン国王フェリペ2世に謁見、85年3月にはローマ教皇グレゴリオ13世に謁見します。それからイタリア各地を回り、どこでも大歓迎を受けました。

| ゴアは当時ポルトガルのアジアにおける拠点であった。写真は、ポルトガル時代のアグアダ要塞 |
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1586年4月、リスボンを出帆して帰国の途に着きますが、彼らが日本に到着するまでの間に、日本の情勢が大きく変わっていました。九州を征服した豊臣秀吉が87年バテレン追放を発令したのです。これによって、キリシタンの弾圧が始まり、キリシタン大名の多くが棄教するようになっていきます。
使節団はインドのゴアでバリニャーノと再合流しますが、日本の情勢が思わしくないためマカオなどでしばらく様子見し、日本に帰国するのは1590年7月になってしまいます。結局、彼らは8年半にわたる大旅行を果たしたのです。正副使の少年たちの名は、正使の伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲル、副使の中浦ジュリアンと原マルチノです。
帰国後、棄教した千々石ミゲルを除く3人は、いずれも1608年に司祭に叙階されますが、3人のうち伊東マンショは12年長崎で病没、中浦ジュリアンは徳川幕府の厳しいキリシタン弾圧に抗して布教に務めますが、33年に捕らえられ、長崎で逆さづりによって刑死しました。また、原マルチノは14年に国外追放され、29年にマカオで客死します。

| 宮城県石巻市の「宮城県慶長使節船ミュージアム」に展示されている復元されたサン・フアン・バウティスタ号 |
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一方、慶長遣欧使節団は、伊達政宗の命令で派遣されました。船は伊達藩が建造したサン・フアン・バウティスタ号で、排水量は500tという当時としては大きな軍艦でした。この使節団の派遣には、大御所となっていた徳川家康の承認と協力のもとに行われたもので、フランシスコ会士のルイス・ソテロなどスペイン人やポルトガル人を仙台に差し向けたのも家康だったようです。バウティスタ号は伊達藩の建造と書きましたが、建造には彼らスペイン人たちが指導しています。
家康にはイギリス人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)にガレオン船(安針丸)を建造させたという実績がありました。スペインの前フィリピン総督ドン・ロドリゴがメキシコに帰還する際、房総半島沖合いで遭難(1609年)したため、帰還の船に安針丸をドン・ロドリゴに与えています。バウティスタ号建造には安針丸建造に携わった日本人の船大工も何人か派遣された可能性があります。
バウティスタ号の乗員は伊達政宗の家臣、支倉常長を首席とする上士12名、下士・水夫や商人など約120人のほか、徳川家の家臣も10名入っていたといいます。また、スペイン・ポルトガル人も40名ほどいて、その中にはソテロのほか、ドン・ロドリゴの救済の答礼としてメキシコから派遣されて来日していたセバスティアン・ビスカイノもいました。

バウティスタ号が寄港したアカプルコは、ロサンゼルス発着のクルーズ船も多く寄港する人気リゾート地
Photo by Nadine Markova/Mexico Tourism Board |
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家康は当時、金の産出地として有名だったメキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)の鉱山技術を学ばせようという意図もあったようです。そういう明確な意図がありながら、家康が伊達政宗を頼ったのは、二代将軍秀忠が厳しいキリシタン禁教令(1612年)を出していることに対する遠慮があったと言ってよいでしょう。伊達政宗にとっては晩年に近づいた家康が亡くなれば、また戦乱の世に戻る可能性があり、当時世界最強のスペインの力を借りておきたいという思惑があったのかもしれません。
バウティスタ号は1614年1月、わずか3ヵ月でメキシコのアカプルコに到着しました。日本人が史上初めてアメリカに到着したのです。支倉常長ら伊達藩の一行はアカプルコから通って大西洋側のベラクルスに向かい、ここからスペイン船に乗せてもらって15年1月にスペインに到着、国王フェリペ3世に謁見、さらに11月にはローマ教皇パウルス5世に謁見します。こうして一応の目的を果たしたのですが、既にヨーロッパには徳川幕府の厳しい禁教令の情報が入っていたため、伊達政宗が意図した通商については色よい返事は貰えなかったようです。
支倉一行がローマに向かっている間、バウティスタ号はメキシコの鉱山技師などを連れて仙台に戻っています。1616年9月、バウティスタ号と行動を共にしていたソテロの要求により、再びアカプルコを目指して出航し、メキシコでローマから戻っていた支倉使節団一行と合流して18年4月にフィリピンのルソン島に到着、その際、オランダの攻撃から守るために軍艦を必要としていたフィリピン総督府の要請を受けてバウティスタ号を売り渡しています。
1620年、支倉使節団とソテロは日本に帰国しますが、キリスト教に対する徳川幕府の弾圧はますます激しくなっていて、ソテロは江戸で密かに教会を建設しようとして捕らえられ、処刑されてしまいます。大御所が亡くなって後ろ盾を失った伊達藩も、幕府の意向には逆らえず、キリスト教の禁令を受け入れていました。支倉常長の息子は、家臣にキリシタンがいたことを理由に家名断絶・切腹を命じられるなどの悲劇に見舞われました。支倉使節団の記録も、この頃にすべて焼却されてしまったようです。
こうして日本の大航海時代は、花開く前に摘み取られてしまいました。東アジアの中国(清国)、李氏朝鮮、日本の3国は、いずれも鎖国政策をとり、西欧からの独立を貫くことができましたが、歴史的に見て、それがよかったかどうかは、にわかには判断できないところがあります。
最後に
ヨーロッパの大航海時代は、主役が次々と交代し、そして最後にイギリスが勝利を収める形になりましたが、そのイギリスでさえも最後には植民地アメリカの独立と発展によって世界の覇者としての地位を下りざるを得なくなったのも、歴史的アイロニーというべきでしょうか。
大航海時代を通じて、世界のあらゆる地域にキリスト教を含む西洋文明が広がりました。その代わり固有の民族文化の多くが喪失していきました。中には民族そのものが滅亡してしまったケースも少なからずありました。優勝劣敗が世界的規模で行われた大航海時代の負の遺産は、21世紀に入った現代でも、すべてが清算できていないように思われます。
前・後編計24回にわたり、連載してきましたが、もし毎回読んでいただいた読者の方がおられたとしたら、感謝の言葉もありません。
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