
| キャプテン・クックとして知られるジェームズ・クック(ロンドン海軍博物館蔵) |
|
大航海時代によって、アジアへの新航路開拓と地理上の“発見”が次々と行われてきましたが、17世紀には二つの大きな課題が残っていました。一つは南半球にあると信じられてきた巨大大陸の発見と、もう一つはアジアへの北方航路の開拓です。
最初の南半球の巨大大陸とは、古代ギリシャ時代からの伝説です。地球が球体であるという説を信じていた者たちの間では、地球が天空に浮かんでいる以上、地球がバランスをとる上で南・北半球にはそれぞれ同程度の面積の陸地を有しているはずであるという主張です。当時は北半球のユーラシア大陸(アジアとヨーロッパとアフリカ大陸の一部)だけしか知られていなかったので、南半球にもこれらに匹敵する巨大大陸が存在すると信じられていたのです。
大航海時代によって地球が球体であることが実証されたことにより、南・北半球の大陸バランス説は西欧の知識人の間では広く信じられるようになっていました。しかも新たに発見された南北アメリカは、バランスがある程度とれているものの、ユーラシア大陸に対するアフリカ大陸だけでは南北のバランスがとれていないことから、南太平洋上には巨大大陸があるという確信になっていたのです。
一方、北方航路の開拓は、大航海時代の後発国であるイギリス、オランダ、フランス、ロシアなどにとって重要な課題でした。ポルトガルとスペインによって独占されていたアジアへの東西航路に対抗するためには大西洋を北上して直接、東アジアに到達できる北方航路の開拓が必要だったのです。しかも、この北方航路が発見できれば、最短距離で東アジアに到達できるはずです。

| オーストラリアに初めて到達したヨーロッパ人で、タスマン海峡とタスマニア島に名を残すアベル・タスマン |
|
しかし、この二つの課題をことごとく実証的に否定することになったのが、大航海時代の最後の大冒険家ともいえる、イギリスのジェームス・クックでした。
フェルディナンド・マゼラン艦隊の世界一周を最初に、続いてフランシス・ドレークの世界一周も16世紀には行われていたにもかかわらず、オーストラリア大陸の“発見”はかなり遅れることになります。これは大航海時代のなぞと言っていいでしょう。
オーストラリアに最初に到達したヨーロッパ人は、オランダ人アベル・タスマンとされています。オーストラリア西岸をたどって、タスマニア島を1624年に“発見”、さらに東に進んでニュージーランドを“発見”しています。タスマニア島の名は、タスマンにちなんでいます。44年の第2回航海では、ニューギニア島を経て、北部オーストラリアの沿岸を周航しています。しかし、タスマンは彼が上陸したオーストラリアの土地が不毛の地であるとして、オランダが領有するほどの価値があるとは判断しなかったようです。

| オーストラリアのシドニー港。クックはオーストラリア大陸ではシドニー近郊のボタニー湾に最初に上陸した |
|
実はインド洋を航行していたポルトガル船やスペイン船の何隻かは、暴風のためにオーストラリアの西海岸まで流され、沿岸の岩礁や砂浜に漂着・座礁していたのです。生還できた彼らからインド洋の東に大きな陸地があるという話が伝わり、伝説の巨大大陸に対する発見の期待が一層高まっていました。
イギリスが新大陸を直接的に知ることになったのは、イギリス私掠(海賊)船の船長ウィリアム・ダンピアが1688年にオーストラリア西海岸のキング・サウンド近くに上陸したことに始まります。その報告を受けたイギリス王立協会は、伝説の巨大大陸の発見ではと半ば信じ込んでいたようです。なお、ダンビアは初めて地球を2周した人物として知られ、しかも生涯3回の世界周航を果たしています。それでもなお、イギリスがオーストラリアやニュージーランドの領有を宣言するには、ジェームズ・クック船長の登場を待たなければならなかったのです。
世界史としての時代区分から言えば、17世紀後半以降は、もう大航海時代とは言えないかもしれません(一般的には大航海時代は15世紀半ばから17世紀半ばまでの約200年間とされています)。しかし、大航海時代の棹尾(とうび)を飾るべき、クック船長の大航海を記述しないでは竜頭蛇尾に終わってしまうというほかありません。

| クックは第1回目の航海でシドニー付近よりグレートバリアリーフを北上し、オーストラリア大陸とニューギニアの間のトレス海峡を発見している |
|
クックはイギリス・ヨークシャーにある寒村の農業労働者の子として1728年に誕生しました。初歩的な教育を受けただけで18歳ごろから石炭運搬船の船員になります。実体験で航海術を学んだクックは27歳で海軍に入り、測量技術を学びます。特に61年にジョン・ハリソンが発明したクロノメーターを使って正確な経度測定が可能になり、クックはクロノメーターを駆使して、精度の高い地図を製作して、学者としての高い評価を受けています。
これに目をつけたイギリス王立協会は、クックに南太平洋での天体観測を命じますが、これとは別に特命として、ダンビアが報告した大きな陸地の調査を命じたのです。クックは1768年にイギリスのプリマスを出港、翌年6月に南太平洋での金星観測を終えて、ニュージーランド、オーストラリア東岸、ニューギニア南岸などを調査し、イギリスの領有を宣言し、西回りの世界周航を果たして69年に帰還します。
次いで、1772年に第2回目の大航海に旅立ちます。このときの使命は、伝説の巨大大陸(テラ・アウストラリス)の調査でした。イギリスの領土となったオーストラリアは、巨大大陸ではなく、さらにオーストラリアの南方にあるのではというイギリス王立協会の依頼を受けて、南極圏に突入し南緯71度10分に到達して、テラ・アウストラリスの不存在を証明しました。クックは、この第2回大航海で、ニューヘブリデス諸島やニュ−カレド二ア島などの太平洋の島々を地図上に正確に記録しています。

| リチャード・チャンセラーが発見した北極圏に位置し、夏は太陽の沈まないノールカップ |
|
第3回大航海は第2回航海の帰還した翌年の1776年に出発しています。その使命は北太平洋から北大西洋に連絡する航路の発見でした。しかし、帆船では北太平洋から北大西洋へ抜ける海路が存在しないことを確認する結果となりました。
北大西洋からインドへの航路を発見しようとする北方航路の開拓は16世紀から始まりました。北方航路には大西洋からロシアの北側を通ろうとする北東回りと、北アメリカの北側を通ろうとする北西回りの二つがありました。
北西回りは、1509年のセバスチャン・カボット、24・28年のジョバンニ・ベラツァーノ、34年のジャック・カルティエ、1609〜11年のヘンリー・ハドソンなどが挑戦しましたが、多くの場合、途上で凍死したり、病死したり、ときには乗組員の反乱で置き去りにされたりして悲劇に終わっています。
北東回りは、1553年のリチャード・チャンセラーがヒュー・ウィロビーらとともに挑戦しています。チャンセラーとはぐれたヒュー・ウィロビーら2隻の船は北極海で全滅しますが、チャンセラーの乗船は北極海から川を遡航してモスクワに至り、イワン雷帝に謁見し、英露通商交渉に成功しているのが、目的外ながら唯一の例外といってよいでしょう。

| ハワイ島ケアラケクア湾でのジェームス・クックの最後を描いた絵画 |
|
いずれにしても、北方航路の開拓は失敗に終わっていたのです。北米沿岸からベーリング海峡に深く入り込んだクックの艦隊は、帆船では北極圏を横断したり、北米大陸やユーラシア大陸の北端を通過することは到底できないことを理解したのです。これによって、無謀な北方航路の探索は幕を下ろすことになります。
ところで、この第3回航海では、クック艦隊はベーリング海に到着する前の1778年にハワイにたどり着き、ハワイに上陸した最初の西欧人の栄誉を得ます。その翌年の1779年に北アメリカ西海岸からベーリング海への航海を終えハワイに戻ったクック船長は、ちょっとしたトラブルからハワイ原住民に殺されてしまいます。平民から海軍大佐までのし上がったクックの厳格すぎる性格と、冒険者がほぼ共通してもっている、原住民に対する蔑視観が災いしたとも言われています。
|