| 現在、イスパニョーラ島の東側はドミニカ共和国、西側はハイチ共和国。写真はドミニカ共和国、ラ・ロマーナ市のリゾート地「カサ・デ・カンポ」内の教会 |
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16世紀は、新大陸アメリカが植民地化される世紀であったと言えます。1493年、コロンブスが第2回航海でイスパニョーラ島をスペインの植民地にしたのを最初に、1511年にキューバ島が、スペインのディエゴ・ベラスケスが率いる遠征隊によって征服されました。そして、このキューバを拠点にして、いよいよ本格的な新大陸アメリカへの植民地化が始まります。
キューバ総督となったベラスケスの命令でエルナンド・コルテスが1519年にメキシコ征服に向かっています。この年は、マゼランが世界周航の旅に出発しています。マゼランが戦死する1521年にコルテスはアステカ帝国を滅亡させてしまいます。これによってスペインは、南はパナマやベネズエラまで支配地を拡大し、そのパナマがスペイン人、フランシスコ・ピサロのインカ帝国征服の拠点となるのです。
ピサロは1524年の第1次遠征、1526年の第2次遠征がいずれも失敗に終わったものの、1532年の遠征では、インカ帝国の皇帝アタワルパを捕らえて、インカ帝国を滅亡させてしまいます。これによって南米のアステカ文明、マヤ文明、インカ文明は消滅してしまいます。
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インカの代表的な遺跡、ペルーのマチュ・ピチュは世界遺産
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アステカ帝国、インカ帝国という二つの一大帝国が、いとも簡単に崩壊したのは、戦闘に際して、インディオが馬という動物を見たことがなかったこと、また銃砲についても未知であったことなどにより、恐怖に駆られた兵士たちが、戦わずに潰走する場合があったためです。さらに、アステカの場合、白人を白い顔の男神「ケツァルコアトル」と見間違ってしまい、神の来臨として迎え入れたという特殊な事情もありました。
また、インカ帝国の場合は、異母兄弟による皇帝継承争いという国内事情もありました。しかし、何よりも帝王に神権があるとみなされ、その帝王が捕らえられたり、殺害されたりしてしまうと、組織的な反撃ができなくなってしまうという、帝王の絶対性が民族の滅亡を導いたとも言えます。
これによって、南米はすべてスペインのものとなるはずでしたが、ただブラジルだけが例外でした。ブラジルは1500年にポルトガル人のカブラルが“発見”したことからポルトガルの植民地となりました。カブラルは当初、バスコ・ダ・ガマのインド航路の後を追って、喜望峰に向かったのですが、途中で嵐に遭ってブラジルに漂着し、そこでポルトガルの領土を宣言しました。そして、ポルトガルは1549年に初代ブラジル総督を送り込み、植民地化を本格化していきます。最初は大西洋沿岸地域に限られていて、内陸部が本格的に植民地化されるのは、17世紀に入ってからです。また、ブラジルの南に位置するアルゼンチンがスペインの支配地として確定するのは1573年で、これによって中南米の分割が完了します。
| カブラルはブラジルのバイーア州ポルトセグロ付近に漂着した。同じバイーア州のサルバドルはポルトガル領ブラジルの最初の首都であった |
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中南米の植民地化によって、原住民の大虐殺と奴隷的使役、そして西洋人が持ち込んだ疫病により、多くの部族が滅亡していきました。そのため労働力不足を補うため、アフリカの黒人奴隷を次々と送り込んでいきました。
スペイン、ポルトガル両国による新世界分割は、ローマ教皇の権威によって裏打ちされていました。その保証に対する代償が、“未開民族”のキリスト教への改宗でした。特に、スペインでは1503年に、スペイン人がインディオのキリスト教化を進める対価として、インディオの労働を受け取ることができるエンコミエンダ制が取り入れられました。これによって、インディオを実質的な奴隷労働に従事させる特権をスペイン人に与えることになったのです。
このスペインとポルトガルの新世界分割に対抗しようとしたのが、イギリス、オランダ、フランスの3国でした。神聖ローマ帝国とスペインを継承したカール5世(スペイン王としてはカルロス1世。1500〜58年)はローマ・カソリックの守護者としてプロテスタントを弾圧したため、スペインの支配下にあったオランダ(ネーデルランド)は、独立を目指していきます。イギリスもフランスとの百年戦争の結果、大陸の領土を失い、海外進出に活路を求めていました。フランスは隣国スペインとは領土問題で常に対立関係にあり、さらにイタリア半島の覇権を巡って争っていました。
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チュニジアの首都、チュニス。バルバリア海賊は、北アフリカのアルジェリア、チュニジアの沿岸部を根拠地とした
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一方、イベリア半島から駆逐されたイスラム教徒たちは、北アフリカ沿岸のバルバリア地方に逃れ、その一部は海賊としてスペインやイタリア沿岸を襲うようになります。また、オスマン帝国との戦い、ドイツなどにおけるプロテスタントの反乱などに対する鎮圧は、ローマ・カソリックの守護者を自任する神聖ローマ帝国にとって避けて通れない問題でした。
カール5世は晩年になると戦いに倦み、ついに1556年、退位して息子のフェリペ2世(スペイン、オランダなど)と弟のフェルディナント1世(神聖ローマ帝国など)に譲ってしまいます。新世界からもたらされた莫大な富がありながら、休まることを知らない戦争の明け暮れによって、スペイン王室の財政事情は、ほどんど破産状態に陥っていました。
フェリペ2世(1527〜98年)は、カール5世以上にカソリック信仰に傾倒し、プロテスタントに対する弾圧は一層、激しいものがありました。そのため、プロテスタントの多いオランダでは反乱が起き、スペインによって国外を追い出されたオランダ人の貴族たちが軍事集団ゼー・ゴイセン(海の乞食団)を結成して、スペインの船を襲うようになります。このオランダの反乱軍を密かに支援したのはイギリスでした。また、スペインとポルトガルの世界分割に対抗するため私掠船を活用して、スペイン船を襲わせるようになります。
この私掠船というのは、海軍力を補うために正規の軍船以外の船を武装させて、敵対関係の国の艦船を拿捕し、その積載品を奪うことを国家に承認されたものです。いわば、国家公認の海賊と言ったほうが、適切なのかもしれません。特にイギリスの私掠船は中南米からスペインに帰還しようとする船舶を大西洋上で襲わせることを第一の目的としていました。初期の私掠船の代表的船長は、フランシス・ドレークです。
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1578年にドレークによって発見された南米最南端のホーン岬は、ドレーク海峡に面したチリ領のホーン島にある
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ドレークは1453年前後に南イングランドで生まれ、初め奴隷貿易に従事していましたが、68年に大西洋上でスペイン海軍に襲われたため、ドレークは何とか逃れることができたものの、大勢の仲間を殺害されてしまいました。ドレークはスペインに対する復讐心に燃え、海賊活動を始めることを決意したのです。後にスペイン人から「エル・ドラコ(ドラゴン)」として恐れられるようになるのですが、この事件はまさにイギリスのドラ
ゴンを目覚めさせることになったのです。そして、早くも70年以降、海賊船の船長として西インド諸島のスペインの船や植民地を襲うようになります。
1577年にはエリザベス1世から私掠許可状を受け、世界周航の旅に出ます。イングランド南西部にある港湾都市プリマスを出航した船団は、ガレオン船のゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻でした。マゼラン海峡を経て太平洋側に出ると、チリやペルーなどのスペイン植民地やスペイン船を襲って莫大な財宝を奪っていきます。そして、80年にゴールデン・ハインド号だけがプリマスに戻ることができ、海賊行為で得た財宝をエリザベス1世に捧げました。その額はイギリス国庫歳入を超えるものがあったということです。これによって、ドレーク船長はサーの称号をエリザベス女王から授与されることになります。
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