
| ジブラルタル海峡。対岸のセウタは、現在スペインの飛び地となっている |
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カスティリアからの攻撃を退けてポルトガル王国の独立を守ったジョアン一世は、いよいよ海外への冒険事業に取り組むことになります。ジョアン一世には十数人の子供がいたようですが、そのうちジョアン一世の事業を助けたのは、次男のドゥアルテ(2代目ポルトガル王)、三男のペドロ(コインブラ公、3代目アフォンソ5世の摂政)、四男のエンリケ(ビセウ公、クリスト騎士団長)でした。
1415年8月、ジョアン一世はポルトガル軍を率いて、ジブラルタル海峡の対岸にあるセウタ(現在のモロッコ最北部の岬部分)を占領します。当時、アフリカの地中海沿岸西部は、イスラム教徒のマリン王国(1195〜1470年)が支配していましたが、後継者争いや内乱で弱体化していました。その虚を突く形でポルトガル軍は侵攻したのです。セウタにはマリン王国の艦隊が集結していましたが、これを全滅させたということです。

| 現在は、多くの地中海クルーズの客船が出航するジェノバ港 |
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カスティリアからの攻撃を撃退して、ようやく独立を守ったポルトガルが海外遠征するのは経済的には耐えられないほどの負担になるはずでしたが、救いの手があったのです。それはイタリアのジェノバでした。ジェノバはアマルフィ、ベネチア、ピサとともにイタリアの四大海運共和国に数えられ、地中海交易の覇権を巡ってベネチアと最後まで戦い、結局はベネチアの軍門に降っていました。これによって地中海の制海権はベネチアやイスラム教国に握られていたため、活路を大西洋への進出によって開こうとしていたことから、ポルトガルのアフリカ進出を援助したのです。それは資金面だけでなく、ベネチア海軍によるポルトガル兵の輸送という支援もあったことでしょう。
その背景にはローマ法王庁の斡旋があったのかもしれません。十字軍遠征の失敗で、ローマ法王の権威は最盛期と比べ下落していましたが、レコンキスタ(国土回復運動)ではローマ法王庁が司令塔の役割を果たしていました。特にイスラム教徒との戦いを優位に進めていたイベリア半島では、ローマ法王はまだ絶大な権威がありました。レコンキスタの優等生であるポルトガルの盛衰は、ある意味ではローマ法王の権勢にも影響を与えかねないことでもあったのです。

| イタリア四大海運共和国の一つアマルフィは現在、世界遺産に指定されている |
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セウタはポルトガルにとっては最初の海外領土ということになり、ジョアン一世とその息子たちは、ここを根拠に北アフリカ、特に現在のモロッコやその南部の大西洋沿岸地域へ勢力を伸ばそうと考えていましたが、そう簡単にはいかなかったのです。ジョアン1世死後の1437年、ドゥアルテ王はセウタ近くのタンジール征服戦を展開しますが、イスラム教徒軍に撃退されてしまいます。しかも末弟のフェルナンド(アビッシュ騎士団長)が捕虜となってしまいます。イスラム教徒側はフェルナンドと引き換えに、セウタの返還を迫りますが、ポルトガル側はこれを拒否、フェルナンドは1443年、土牢の中で41歳で死去してしまったということです。この敗戦に懲りたのか、ポルトガルはしばらくはセウタの防衛に専念します。
セウタの占領は、単にアフリカでの領土を確保したということにとどまらず、アフリカ奥地の情報をポルトガルにもたらすことになったのです。この情報に特に関心を持ったのが、ビセウ公エンリケでした。一般にはセウタの侵攻もタンジール征服戦もエンリケが実行したようにとらえる考え方があるようですが、彼には父王のジョアン一世や兄王のドゥアルテ、摂政のペドロがいたわけですから、ポルトガルの統治者ではないのです。エンリケはセウタ侵攻当時、まだ20〜21歳ぐらいという若さでしたから、全軍の指揮をとるというのは無理だったはずです。

| リスボンの「発見のモニュメント」。エンリケ王子を先頭に大航海時代に活躍した人々が続く
(写真:Instituto de Turismo de Portugal) |
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しかし、エンリケのキリスト騎士団総長という役職は、ローマ法王庁と直結していて、ポルトガルにおけるレコンキスタの責任者という役割でした。キリスト騎士団はボルゴーニャ朝のディニシュ王(在位1279〜1325年)によって結成されていますが、キリスト騎士団はフランス王フィリップ4世によって解散(1311年)させられていたテンプル騎士団の財産の一部をローマ法王の命令によって継承することができたのです。そのキリスト騎士団の総長にエンリケ王子が就任し、エンリケは騎士団の財産を自由に使える立場にあったのです。エンリケはキリスト騎士団の財産の一部をセウタ侵攻だけでなく、新世界進出への研究と計画を実行する資金にも活用することができたのです。
エンリケ王子の新世界進出計画に強い影響を与えたものが二つありました。一つは、プレスター・ジョン伝説とジパングの黄金伝説です。
ブレスター.ジョン伝説は、十字軍に参加した兵士たちがイスラム勢力との苦しい戦いの中で、一つの願望として作り上げ、それがキリスト教社会に広まっていきました。それはプレスター・ジョンというキリスト教徒が、イスラム教圏よりも東方に大王国を建設したというものでした。そして、その大王国が十字軍と連携して、東側からイスラム教徒を攻めたて、聖地エルサレムを解放し十字軍の遠征も終わるという話まで発展していきました。その伝説が書物にも書かれるようになると、あたかも真実であるかのように伝わっていきました。そして、プレスター・ジョンの国が、現実に存在したさまざまな国に比定されることになるのです。
例えば、蒙古帝国。確かにここにはキリスト教の一派(ローマ・カソリックから言えば、異端に過ぎませんが)のネストリウス派(中国では景教といいます)が一定の勢力を持っていたことからの誤解というより希望的解釈がありました。つまり、敵の敵は味方ということです。また、インドのヒンズー教の王朝、エチオピアなどが次々と候補にあげられ、エンリケ王子の時代にはアフリカ奥地に存在するかもしれないなどという説まで出ていました。
エンリケにはレコンキスタのために、プレスター・ジョンの王国の軍事力を借りてイスラム教徒を一掃し、ポルトガルをヨーロッパの覇者にしたいという強い願望が生まれ、プレスター・ジョン王国の発見がポルトガルの海外進出の理由の一つになりました。
一方、金の国ジパング伝説はマルコ・ポーロの『東方見聞録』に出てくるものですが、中国大陸の東方海上に金を大量に産出する島国ジパングがあるという話がヨーロッパ諸国に流布されました。確かに、中世以前、日本では現代と比べると金がかなり産出していたようですが、黄金の国といわれるほどではなかったはずです。ただ、日本の場合、金に比べると、銀の産出が相対的に少なかったため、銀の価値が格別高かったのです。つまり、銀に対して金の価値が低かったということが、ジパングではあたかも金が石ころのように、どこでもころがっていると拡大解釈されたのかもしれません。実際、江戸時代にオランダ人は中国で銀を買って長崎で金と交換し、それを中国に持ち帰って銀と交換すると2倍以上の利益が得られたということですから、マルコ・ポーロの誇張のし過ぎではありますが、全くのでたらめというわけにはいかない事実がありました。
エンリケにとって小国ポルトガルの独立を維持し、また世界へ雄飛していくためにも、金がなによりも必要でした。当時、アフリカはインドとつながっていると考えられていましたから(従ってインド洋は内海と見られていた)、アフリカに沿っていけば、インドを経て中国に行け、その東方には黄金の島があると考えていたのでしょう。ジパングの発見も海外進出の理由の一つになっていました。
ところが、セウタの占領中、捕虜にしたイスラム教徒からサハラ砂漠を越えて、アフリカの奥地から金が運ばれてきているという耳寄りな情報が入ってきました。とりあえず、その金の出所を探ることが先決となり、陸地から奥地に入るにはイスラム教徒の抵抗が強いため、アフリカ西岸に沿って南下し、奥地に入れる可能性を探ることになったのです。
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