
| 西ゴート王国の首都だった、スペインのトレドは、後にカスティリャ王国の首都にもなった |
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イスラム教のウマイヤ朝は、中近東から地中海の南側、つまりアフリカ沿岸を西に進み、ついにジブラルタル海峡を越えて西からヨーロッパを侵略、西暦714年にはイベリア半島を支配していた西ゴート王国を滅ぼしてしまいます。そして、一時はイベリア半島のほぼ全域を占領してしまいます。
イスラム世界では、最初の世襲制王朝であるウマイヤ朝が750年、アッバース朝によって滅ぼされてしまうのですが、ウマイヤ朝の王族(第10代カリフの孫)であるアブド・アッラフマーン1世(731−88年)が756年、イベリア半島へ進出し、コルトバを首都とする後ウマイヤ朝を建国しました。中近東のアッバース朝とは完全に独立する形とはなりましたが、建国から1031年まで、約300年にわたって、イベリア半島に君臨することになるのです。
しかし、イベリア半島からキリスト教徒が完全に駆逐されたわけではなく、西ゴート王国の遺臣たちが、アストゥリアス王国(後にレオン王国となる)やアラゴン王国をピレーネ山脈の南麓やイベリア半島の西側に建設し、徐々に領土を拡大していきました。これらの国がイスラム教徒の北上を阻止しただけでなく、レコンキスタの最前線基地の役割を果たしたのです。また、レオン王国からカスティリャ王国やポルトガル王国が独立し、後にカスティリャ王国とアラゴン王国は、スペイン王国に発展していくことになります。
一方、後ウマイヤ王国内部では王族間の覇権争いやスラブ系豪族とベルベル系豪族の勢力争いが起き、1031年にはカリフが廃されて滅亡し、諸豪族による群雄割拠となって、徐々に衰退をたどっていきます。そうしたイスラム側の混乱の中、ポルトガル王国がカスティリャ王国からも独立します。

初代ポルトガル国王のアフォンソ1世ゆかりのアルコバッサ修道院
(写真:Instituto de Turismo de Portugal) |
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ポルトガル王国の始まりは、フランスのブルゴーニュの騎士たちの一人、アンリ・ド・ブルゴーニュでした。ブルゴーニュの騎士団は、カスティリャ王国の要請に応じて、西方十字軍となってピレネー山脈を越えて南下し、レコンキスタを展開したのです。その中にあって、アンリは目覚しい働きをして、カスティリア王から気に入れられ、その王女、テレサと結婚し、テレサの所領を支配することになります。そして、彼らの息子エンリケスが自立して1143年、アフォンソ1世として即位、ポルトガル王国が成立します。これをポルトガル王国最初のブルゴーニュ王朝といいます。
自立したとはいえ、ポルトガル王国は大西洋沿岸のほんのわずかな領土だけでしたが、1147年にはイングランド十字軍の援助によってリスボンをイスラム教徒の手から奪い、1255年にはリスボンに遷都します。このリスボンへの遷都がポルトガルにおけるレコンキスタの完了ともいえますが、イベリア半島のキリスト教諸国とも領土を巡って、紛争が続きました。
ポルトガルの大航海時代を切り開くきっかけを作ったのは、ジョアン1世(在位1385〜1433年)でした。このジュアン1世は、ブルゴーニュ朝の8代ペドロ1世(在位1357〜67年)の庶子だったのです。一夫一婦制の厳格なカソリックが支配するヨーロッパでは、正室の子でない者が、王位につくことは、ほとんどまれなことでした。それには、ペドロ1世と、2番目の妻コンスタンサの侍女イネス・デ・カストロとの悲恋物語がありました。
コンスタンスはカスティリャ王国の王族の娘でしたが、ペドロ1世はその侍女のイネスのほうを愛してしまうのです。もともとポルトガル王国は、カスティリャ王国から自立したものの、ローマ教皇が独立を承認したため、カスティリャ王国はやむを得ず認めていだけでした。ポルトガル王国と比べて広大な領地をもつカスティリャ王国は、イスラム教徒の諸豪族との戦いに明け暮れていて、ポルトガル王国を敵に回すことができなかったという事情もありました。しかし、ポルトガル王国にとってカスティリャ王のご機嫌を損ねることは、王国の存立を危うくしかねない問題でした。

リスボンの「発見のモニュメント」。エンリケ王子を先頭に大航海時代に活躍した人々が続く
(写真:Instituto de Turismo de Portugal) |
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そのため、父王のアフォンソ4世はペドロとイネスの仲を裂いてしまいますが、コンスタンサが死去してしまうと、二人の仲は公然化し、二人の間には後のジョアン1世が生まれます。カスティリャ王の怒りを恐れた父王と重臣たちは、1355年にイネスを殺害して今います。ペドロは深い悲しみと絶望を味わいますが、父王アフォンソ4世が死去して王位を継承すると、復讐の鬼と化し、イネスの殺害に手を貸した重臣たちを皆殺しにしてしまいます。このため、ペドロ1世は『残酷王』という名を奉られてしまいます。
ペドロとイオスの間に生まれたジョアンは、アビス騎士団長を務めていました。ペドロ1世の正室から生まれたフェルナンド1世(在位1367〜83年)が死去してポルトガル王国が混乱したのに乗じて、1385年にカスティリャ王国が侵攻してきました。まさにポルトガル独立が風前のともしびに陥りましたが、ジョアンがアビス騎士団を率いて、これを撃退しました。ジョアンはポルトガルの救世主と崇められ、選ばれてジョアン1世として王位につくことになりました。
しかし、ジョアン1世はペドロ1世の息子であるにもかかわらず、庶子であったため、ブルゴーニュ王朝の正統な継承者としては認められず、彼の王朝はアビシュ王朝と名づけられて、別の王朝の創建者とされました。今の日本では、正妻の子であろうが庶子であろうが、法的には平等に扱われるようになっていますから、このようなことは起きないわけですが、ポルトガル史では庶子というだけの理由で王朝の交代と捉えているようです。
このジュアン1世の王子の一人が、航海王といわれたエンリケ王子というように、ポルトガルの大航海時代はアビシュ王朝の成立とともに始まるのです。

「発見のモニュメント」広場には大理石で世界地図が描かれている
(写真:Instituto de Turismo de Portugal) |
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当時のポルトガルは、半ば宗主国だったカスティリャ王国の侵攻を退けたことにより、民族意識が高揚していました。そのエネルギーは、普通なら周辺諸国へ向けられるはずでしたが、周辺には強国のカスティリャ王国が存在していました。ポルトガル侵攻を阻止したものの、ポルトガル王国にはカスティリャ王国を攻撃するだけの力はなかったのです。
そこで自然と海外へほこさきが向けられることになるのですが、地中海の制海権は、既にイスラムやイタリアの諸公国の手中にあるだけでなく、後にスペイン王国となるカスティリャ王国やアラゴン王国も地中海の進出を図ろうとしていたため、ポルトガル王国の入り込む余地はなかったのです。アフリカの地中海沿岸に対しては、1415年にジョアン1世が大西洋沿岸のモロッコを占領しましたが、後にスペインもアフリカに進出してきたことやイスラム教徒の反攻もあって、大きく領土を拡大することはできなかったのです。
また、大西洋の北部の海域は、フランスやイギリス、そしてハンザ同盟が勢力を張っていましたから、こちらも進出のしようもなかったわけです。残されたのは唯一、大西洋をアフリカの海岸線に沿って航行する、未知の世界への雄飛以外しかなかったのです。

リスボン海事博物館に展示されている大航海時代に使われた天体観測器
(写真:Instituto de Turismo de Portugal) |
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当時のヨーロッパの知識人の間では、天動説をとっていましたが、地球は球体であることを知っていました。アフリカに沿って航行していけば、アジアに到達できるだろうという漠然とした考えは持っていました。第1回に記載したフェニキア人による逆コースのアフリカ周航という遠い記憶も、完全に忘れ去られたわけではなかったようです。
特に、イベリア半島はイスラム教徒の支配が長く続いたことにより、キリスト教世界には見られない、進んだ科学的知識も根付いていました。
また、イベリア半島は地中海の航行する船と、大西洋を航行する船との接点でもありました。両方の船は別々に発展し、それぞれが別々の長所を持っていました。特に、アラビア人が発展させてきた三角帆や複数マストの採用は、向かい風に対する斜め航行(向かい風に対してはジグザグ進行によって目的の方向に進行)を可能にしたのです。実は、船乗りの多くが大海の果ては断崖となっていて、海水が奈落の底に落ち込んでいるという迷信を信じていて、未知の大海に乗り出すことを非常に怖がっていました。帆船が向かい風に対しても航行できれば、その断崖の近くまで来てもUターンできることになるわけですから、船乗りたちの恐怖の種が一つ除去されることになったわけです。
ポルトガルにとってアフリカ周回航路の発見は、国家プロジェクトととなっていったのです。そうした歴史的背景のもとに、航海王エンリケ王子が登場することになるのです。
*今回、『庶子』という言葉が出てきますが、『私生児』とともに、現代の日本では全く必要のない用語ですが、 ジョアン1世を説明する必要上、やむを得ず使用しています。歴史的用語として使用していることをご理解ください。
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