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新彊ウイグル自治区 - 独断・偏狂の私的旅行記 -

砂漠のオアシス ‖ クチャトルファンカシュガル
夢にみる楼蘭ブドウとミイラと砂漠がオレを呼んでいる

砂漠のオアシス

それぞれの旅に一枚か二枚か、忘れられない写真があるものだ。これもそうだ。車で新彊ウイグル自治区をコルラ、クチャ、アクス、カシュガルと走った時の一枚。
 ポプラの並木のしたのウイグルの少女。おそらくは、彼女が昼寝から覚めたばかりの時だったのだろう。
 中国最大の砂漠はタクラマカン砂漠。その北縁に沿って一本の細い細い道が続いている。シルクロードの天山南路である。東は西安に繋がり、西はローマに至る。走っても走っても砂礫の原が続く。変わらぬ風景にいつしかうたた寝をしてしまう。目が覚めて、「ああ寝てしまったな」と外を見ても、風景は少しも変わっていない。とにかく広い。タクラマカンとはウイグル語で「入ると出られない」の意なのだそうだ。生命の生存を許さぬ荒漠たる世界である。そんな大砂漠にポツンポツンとオアシスがある。
「村落が近づいてきたな」と分かる。道の両側にポプラの並木が姿を現すからである。やがて樹木が増え、集落が現れる。そこには水の流れがあり井戸があり人々が暮らしている。そこを通り過ぎるとポプラの並木は次第にまばらになり、やがてまた砂漠に囲まれただけの道に戻る。何時間か走るとポプラの並木が見えてくる。「オアシスだ」。集落がある。水の流れがあり人々が暮らしている。そして、また砂漠になる。これをずっと繰り返す。それが、新彊の車の旅である。
「そう、これがオアシスというものなのだ」。その旅のひとつの収穫であった。もちろん、オアシスというのは知っていた。知ってはいたが、荒漠たる砂漠のなかを四泊五日走り続ける。そこに、ポツンポツンと現れる緑の点。水があれば村落がある。村落があれば並木がある。その並木のしたに人々の暮らしがある。それだけのことだが、すごく心に染みた。感動したと言ってもいい。
この辺りのポプラは葉の裏が白い。その名も裏じろポプラ。風が吹くと、葉の表がキラキラと光り、白い葉裏が涼しげに揺れる。その葉陰で人々が憩う。午後のひととき。ウイグルの民族衣装の女たちが水汲みにやってくる。子供たちが水遊びに興ずる。葉が擦れる音がして、笑い声が聞こえる。灼熱の砂漠を旅してきた者には殆ど奇跡的な光景に見える。それがオアシス。
 ああ、砂漠の民はこうして生きているのか! シルクロードを行く隊商はこれを繋いで旅をしたのか! これを巡って漢と匈奴の戦いがあり、オアシス国家同士の権益を巡る争いがあり、栄枯があり盛衰があったのか!
 そんなオアシスのひとつで車を停めた。並木が余りに美しかったから。何枚かの写真を撮った。フト気が付くと数人の子どもたちが私を見ている。ウイグルの子だ。足下にはゴザが敷いてある。「木陰で昼寝をしていたんだ」。カメラを向けると皆同時に微笑んだ。ああ、良い子たちだ。その時、風がそよいだ。葉が鳴った。ああ、オアシスだ。車に乗り込もうとすると、皆一斉に手を振ってくれた。この子たちは、眼鏡をしてカメラを首から掛けた旅人のことを覚えていてくれるだろうか。そう思いながら私も手を振った。

(北京トコトコの2002年10月号に掲載)

クチャ

 水の流れがあるところには村落がある。村落があるところにはポプラの並木がある。この辺りのポプラは葉の裏が白い。風がそよぐと、葉の表がキラキラと光り、白い葉裏が涼しげに揺れる。その葉陰で人々が憩う。午後のひととき。ウィグルの民族衣装の女たちが水汲みにやってくる。昼寝から覚めた子供たちが水遊びに興ずる。葉が擦れる音がして、笑い声が聞こえる。灼熱の砂漠を旅してきた者には殆ど奇跡的な光景に見える。
 思いきり砂漠に浸ってみようとやってきた。中国最大の砂漠はタクラマカン砂漠。その北縁に沿って一本の細い細い道が続いている。シルクロードの天山南路である。東は西安に繋がり、西はローマに至る。走っても走っても砂礫の原が続く。生命の生存を許さぬ荒漠たる世界。そんな大砂漠にポツンポツンとオアシスがある。オアシスが近いことは、道の両脇にポプラの並木が見えてくることで知れる。ポプラがあることは水があること。水があることは人がいること。並木を抜け村落を抜けると、またもとの砂と風だけの死の風景のなかに入ってゆくことになる。
 クチャもそんなオアシスのひとつ。二千年前、中国の漢の時代には亀茲国として天山南路最大の勢力を誇っていたという。また、唐の時代には仏教が隆盛を極め、「伽藍は百余箇所、僧徒は五千余人」、とこの地を訪れた玄奘三蔵を驚嘆させたという。その後、幾多の民族の興亡が繰り返されてきた。何もかもが土塊に戻り、砂に埋まった。多くの隊商が行き交い、紫髯緑眼の胡人らが喧噪を極めた大オアシス国家の面影 は今はない。
 それでも、ポプラの葉陰は、変わることなく、旅人に涼をもたらし、清い流れはオアシスの民の生を支えている。
 砂漠の旅はオアシスとの出会いでもあった。

(中日新聞・東京新聞の2001年6月17日日曜版に掲載)


トルファン

 トルファンはウィグル族の街だ。中国大陸を西に向かって旅する。蘭州、酒泉、敦煌、ウルムチ、トルファン、クチャ……。「遠くへ来たな」。トルファンまで来るとつくづくそう感じる。ウルムチまでは漢族の街、だがトルファンは違う。碧い眼に立派なあご髯のウィグル
のお爺さんがロバの背に揺られ土埃の道を行く。バザールには赤や黄の香辛料、幾何学模様の絨毯、西域の民族楽器、ナイフ、ウィグルの帽子などが異国情緒を漂わせながら所狭しと並べられている。道行く人、売られているものを見ているだけでも心が弾んでくる。
 トルファンは葡萄の街でもある。収穫は夏。砂漠の上の灼熱の街だ。夏は軽く四十度をこえる。吹く風は砂まじりの熱風。その熱砂と熱風のなかで葡萄が実をつける。八月 、街は葡萄で溢れる。人々手に持つ籠は葡萄で一杯だ。行き 交う馬車の荷台も葡萄の籠で一杯だ。葡萄園に吹く風も灼熱の大地を渡る熱風であることに変わりはないが、それでもどこか甘い香りをはらんでいる。そのなかで、明るい縦縞のワンピースのウィグルの娘たちや四角い小さな帽子をかぶった子どもたちの手で葡萄の房は摘み取られてゆく。
 口に含むと、奇跡のようにみずみずしい。粒は縦に長い楕円。色は薄緑。よく見れば、珠のようだ。灼熱の大地が、よくもこんなに美しい果物を産み出したものだ。
「葡萄の美酒、夜光の杯」。唐の詩人のこんな句を思い出す。そして合点する。「とんでもなく遠くへ来てしまったな」。この句の味わいも、そういう驚きにあるのだ、と。
 いろいろな季節に訪れてはいるが、何と言っても夏が一番だ。灼熱の大地があり、熱風が吹き、そこに陽気なウィグル人がいて葡萄を摘む。トルファンで見る葡萄の一粒は、西域のエキゾチシズムを凝縮させたように美しい。

(中日新聞・東京新聞の2001年9月9日日曜版に掲載)


カシュガル

 町角に立って、そこに居る人、道ゆく人を見ているだけで飽きない。そういう街があるものだ。カシュガルはそんな街のひとつだ。
 シルクロードを西に向かう。天山山脈をはさみ道は二つに分かれる。北麓に天山北路。南麓に天山南路。天山南路はタクラマカン砂漠の北の縁を、大小幾つものオアシスを点から点へ繋ぎながら西へ西へと延びている。タクラマカンというのはウイグル語で「入ると出られない」という意味なのだそうだが、しもの大砂漠にも果てがある。その果てるところにある町がカシュガルである。
 市の中心にあるエイティガール寺院は中国最大のモスクとして名高いが、ほかにも町の至る所にモスクがある。その数は五百をこえるという。人口二十五万人の町にしては不自然なほどに多い。そのひとつひとつにアラーの神への祈りが満ちている、と考えると不思議な感慨を覚える。
「遠くへ来たなあ」と思う。
 乾いた空気。黄色い風。女たちの原色で縦縞の民族衣装。紫髯緑眼の人の群れ。小さなロバに跨る立派なあごひげのウグルのお爺さん。町全体が見せ物小屋のようだ。
 麻の袋に盛られた色とりどりの香辛料。琵琶やチャルメラ、タンバリンなどの西域の民族楽器がならぶ楽器屋。竈で焼きあげたナンが積み上げられている。ハミ瓜やらザクロ、イチジクなどが甘い香りを放っている。やたらに目につくのが、ナイフを売る店と、帽子を売る店。ともにウイグルの男にとっては身から離せないものだという。町全体がバザールのようだ。
 アラーの神への祈りもそうだ。お爺ちゃんを乗せたロバもそうだ。ナイフ屋もそうだ。彼らにとっての日常が、私にとっては物珍しい。「自分は旅人なのだ」カシュガルはそういう思いに浸れる町だ。

(中日新聞・東京新聞の2002年6月9日日曜版に掲載)


夢にみる楼蘭

 たまに、古いアルバムを出してみる。
 随分あちこち行ったものだ。用もないのに。北の端は、黒龍江省の黒河。真冬だった。マイナス三十度。アムール川がコチコチに氷っていた。南は海南島三亜。一月に泳いだ。西はカシュガル。立派なあごひげをはやしたウイグルのお爺ちゃんが小さなロバに乗ってトコトコ歩いていたっけ。東の端は寧波から舟に乗って行った普陀山。観音信仰の霊地だ。
 全省を廻った。随分歩いた。随分歩いたが、満足か、と言うとそうでもない。実は、行きたくて行きたくて、まだ行っていないところがある。一箇所。まだ行っていないばかりではない。このまま一生行くことはないのでは、と思ったりもする。
 楼蘭である。
 楼蘭……流沙に埋もれた謎の王国、などと呼ばれる。
 漢の時代、楼蘭はシルクロードの要衝であった。敦煌を出て西に向かう。砂漠のなかを十七日。最初のオアシスが楼蘭であった。道はそこで二つに分かれ、北へ向かうとクチャ、アクス、カシュガルへ。南に向かうとミーラン、ニヤ、ホータンへ。近くにロプノールという湖があり、タリム河がそこに注いでいた。ところが、四世紀を境に、楼蘭は歴史から姿を消す。ロプノールも消える。シルクロードも道筋を変える。
 この謎の王国が、人々の前に再び姿を現すのは、西暦1900年のことである。スウェーデンの探検家・ヘディンが砂漠の中で偶然に遺跡を発見する。千数百年間、砂漠の中で眠っていたことになる。
 ヘディンはその後の探険でひとりの若い女性のミイラを発掘する。ヘディンは言う。ロプノールの王女に違いない、と。唇のまわりには数千年間消えることのなかった微笑みが今なおただよっている、と。そしてこう続ける。「彼女の眼は、どのような光景を見たであろう! 匈奴やその他の蛮族との戦いに出て行くローランの守備兵、弓矢と投槍の戦士をのせた戦車、ローランを通過したり町の宿屋で休んだりする大隊商、シルクロードを通ってシナの高価な絹の梱をヨーロッパへ運ぶ無数のらくだ。」(『さまよえる湖』関楠生訳)
 井上靖が、この文章に刺激を受け書いた作品が、『楼蘭』である。
 ウルムチの新彊ウイグル自治区博物館に、「楼蘭の美女」と名付けられたミイラが展示されている。こちらは、1980年に中国の調査隊によってローランの近くで発掘されたものだ。炭素14の測定から、三千八百年前のものであることが分かっている。白色人種系だという。栗色の髪。高い鼻筋。フェルトの帽子をかぶり、帽子には鳥の羽が挿してある。足には毛皮を裏返しにして作った靴をはいていた。
 ウルムチに行くたびに、必ず、このミイラを見に行く。このミイラを見るたびにヘディンの文章を思い出し、枯れたタリム河を想い、乾いたロプノールを想い、砂に埋もれた楼蘭王国を想う。行ってみたいなあ、見てみたいな、自分の足で歩いてみたいなあ、と思う。
 でも、簡単に行けない。解放軍の管轄下にある。軍の許可がいる。砂漠だから相応の装備もいる。文物局の定める入域料も非常に高い。幾重にも障害がある。
 その楼蘭である。
 そう言えば、長澤和俊氏がどこかでこんなことを書いている。張騫の西域への派遣は紀元前二世紀のこと。シルクロードへの探険は、地球のどの地域よりも先に始められた。ところが、それから二千年、海上輸送の発達にもよるが、十九世紀、一番最後に残された探険の場所もシルクロードであった、と。
 なるほど。
 東西交易の要衝であった楼蘭が、二千年経ったら、最も行きにくい場所になったわけだ。
 行きにくい。だけど、行けないわけではない。いつか、ね。

(「トコトコ」2004年8月号に掲載)


ブドウとミイラと

 トルファンの八月はブドウの季節だ。砂埃の道を行き交うロバ車の荷台にも収穫されたばかりのブドウが山と積まれている。トルファンは灼熱の盆地。果実の精が小さな粒にギュッと凝縮する。色は薄緑。形は楕円。奇跡のように美しい。熱風に吹かれながら口に含むと、驚くほどにみずみずしい。
「ミイラ取りがミイラになる」。ブドウを食べながら、フト、こんな言葉が浮かんだ。ブドウから、なぜ、ミイラが連想されたか? 理由は後で話そう。  さて、ミイラ取りのことわざ。いったい、いつの時代のことわざだろうか? 明治以降ではなさそうに思える。でも、そうすると、江戸時代の人がミイラを知っていたことになる。そうだろうか?
 帰って「ことわざ辞典」を調べると、「遊里に入りびたっている者を連れもどしに行った者が、一緒になって遊んで帰らないことにいわれる」、と書いてある。ミイラとはポルトガル語だとも。
 江戸時代の人はミイラを知っていた。なぜだろう? そもそも、このことわざに謂う「ミイラ取り」とは何者だろう。何のためにミイラを取りに行ったのだろう?
 少し調べると、疑問はすぐに解けた。ことわざに謂うミイラは、エジプトのミイラである。それを取りに行くのは、ヨーロッパ人である。十五、六世紀、ミイラは万能の薬として絶大な人気があった。中毒、偏頭痛、膿傷、潰瘍、打撲傷、めまい。ミイラをすり鉢で粉々に砕いて……。それが、ポルトガルの商人により日本にも運ばれていたということだろう。
エジプトのミイラ
 効くと信じられたのは、エジプトのミイラの製造法による。ご存じだろうか? ミイラの作り方。
 先ず曲がった刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出する。次に鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出す。つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。そうしてからこれを天然のソーダに漬けて七十日間置く。水分をとり脂肪や筋肉組織を破壊し、皮膚と骨だけを残すためである。七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯で全身をまく。一丁、できあがりである。
 死者の再生は、古代エジプト文明の最大のテーマであった。霊魂は不滅である。その霊魂がこの世に戻ったときの肉体を用意しておかなければならない。当時の科学の粋を集めた保存処理が施されたのがミイラであった。それが、三千年後にヨーロッパ人の万能の薬に利用されることになるとは、何とも皮肉であり、悲劇である。
 そう。トルファンのブドウの話である。
トルファンのブドウは乾しブドウにもされる。トルファンの干しブドウ生産は中国の四分の三を占めるというから凄い。至る所に乾燥させるための小屋が建てられている。壁が煉瓦で格子状に造られているのですぐに分かる。
アスターナ古墳の脇にも乾燥小屋がある。アスターナ古墳は、四世紀から七世紀にかけてこの地を支配した漢族の墓である。墓の数は五百ほどある。なかに入ると、遺体は、綺麗なミイラになって横たわっている。夫婦合葬、夫婦のミイラもある。これらのミイラは、エジプトと違い、特に保存のための処理をしていないという。あまりの乾燥のため、自然にミイラになるという。
そんなミイラを見て地上に出てくると、ブドウ小屋がある。のぞくと、玉すだれのように天井からブドウの房がビッシリと垂れ下がっている。乾燥した風に晒しておくと30日から40日間で、自然に乾しブドウになるという。
交河故城に行く。そこからも崖の上に乾燥小屋が並んでいるのがみえる。よく見ると、少し形の違った建物が幾つか混じっている。
 ガイドさん尋ねると、イスラム教徒のお墓だという。アスターナ古墳で見たミイラと乾燥小屋で見た玉すだれ状に吊されたブドウの房とイメージが重なる。ブドウも遺体も同じ風に吹かれる。そして、一方は乾しブドウに、一方はミイラになって行く。
 妙に感動する。トルファンはミイラの産地。全国の四分の三を生産するかどうかは知らないが……乾しブドウのようなミイラを見て、ミイラのような乾しブドウを食べて。トルファンは灼熱と乾燥の魅力。

(「トコトコ2004年7月号に掲載)


砂漠がオレを呼んでいる

 夏がくる。夏になると砂漠へ行きたくなる。
 初めて本格的な砂漠に接したのはいつのことだったのだろう。
 思い出してみると、蘭州からトルファンまで列車で旅したときのことだろう。もう二十年以上も昔のことになる。三十六時間ぐらいかかっているはずだ。蘭州を出るとほどなく砂漠に入った。一夜明けると、東の砂漠から陽が昇ってきた。「ふーん、これが砂漠の日の出なのか」。一日、ただただ砂漠の中を走った。右も砂漠、左も砂漠。「こんなに広いんだ」。やがて、西の砂漠に陽が沈んだ。「なるほど、これが砂漠の日没なのか」。そして翌朝、また東の砂漠から陽が昇った。「ああ、また砂漠から陽が昇ってきた」。こんな感じでボーッと見とれているうちに、いつの間にかトルファンに着いていた。そんな記憶が残っている。フワフワと夢心地の砂漠であった。
 次は?
 そう、河西回廊をバスで走ったことがあった。河西回廊、蘭州から武威、張掖、酒泉を経て敦煌にいたる道だ。千二百キロを三泊四日で走った。地域的には、前に走った鉄路と重なるのだが、砂漠というものに対して以前とは違う印象を持った。列車とバスの違いだろうか。何というか、砂漠の凄味というものを感じた。あの辺りは砂漠といっても砂ではない。小さい石の混じった砂礫である。その灰色一色の砂礫の原が視線の届く限りまで続いている。ウトウトする。目が覚める。どれくらい寝たのだろう。ふと、車窓の外を見ると、これが、うたた寝をする前の風景と全く変わらない。そうやって、砂漠の中を三泊四日走り続ける。いつでも、砂漠に囲まれている。いつでも、灰色が私に迫ってくる。こんな圧迫感を感じ続けていた。そういう凄味である。
 この砂漠行で特に印象に残っている光景が二つある。ひとつは、地平線。日本では地平線など見ることはまずないのだが、ここでは、四六時中地平線をみて過ごしていた。特に驚いたのは酒泉から嘉峪関の間。それまでは、バスの左手遠く祁連山脈が見えていたり、あるいは、右手に土で固められた万里の長城が併走していたりするのだが、ここまで来ると、まったくの真っ平らになる。視野からあらゆるものが消える。あっと、息をのむ。あるのは、砂礫の原と地平線と空だけ。四方八方、地平線しかない。三六〇度、地平線が丸く自分を取り囲んでいる。そういう風景である。
 もうひとつ忘れられないのは、「道」である。その地平線に向かって一筋、アスファルトの道が、定規で引いた線のように真っ直ぐに伸びている。その凄さも忘れられない。地平線が、三六〇度、私を閉じこめるように取り囲む。そこから脱出する唯一のよすがであるかのように、道が一本真っ直ぐに地平線に伸びていた。走っても走っても、地平線は円いことを止めない。走っても走っても、道は真っ直ぐであることを止めない。「どこかで折り合いがつくのだろうか?」。少なくとも、敦煌まででは、この宿命的な戦いに決着はついていなかった。地平線と道、いまでも、うなされるような心地で夢にでてくる。これがバスで行く砂漠であった。
 最近、またひと味違う砂漠を経験した。昨年のことだが、ラクダに乗ってトンゴリ沙漠を旅行した。トンゴリ沙漠というのは寧夏回族自治区から内蒙古自治区、甘粛省にかけて広がる中国で四番目に大きな砂漠である。ここの砂は、河西回廊のような砂礫ではない。サラサラとした砂。王子様とお姫様がラクダに乗って旅する、そういう沙漠である。そこを昼はラクダの背に揺られ、夜にはテントを張り夜空を眺め、二泊三日の旅をした。
 この時の砂漠は、美しかった。酒泉の真っ平らな砂漠と違って、アンジュレーションがある。丘があり谷があり。そのアンジュレーションが陰影を生み、曲線を描く。曲線は視力の果てまで続いていた。そして、曲線は官能的なまでに魅惑的であった。その光と陰が織りなすアンジュレーションをラクダに揺られて越えてゆく。
 砂漠に包まれ、砂漠に埋もれ、砂漠に眠り、砂漠に親しみ、砂漠に酔うようにして過ごした。砂漠って優しいんだ。ラクダの背でそんなふうに感じていた。
 どの砂漠も懐かしい。列車でもいい、バスでもいい、ラクダでもいい。何でもいいから、夏になると砂漠に行きたくなる。

(「北京トコトコ」2003年8月号に掲載)


−中国旅行大全−
ウルムチ トルファン コルラ クチャ
カシュガル タシュクルガン ヤルカンド ホータン
ニヤ チェルチェン チャリクリク 楼蘭

ウルムチ(烏魯木斉)

 ウルムチは新彊ウイグル自治区の区都。
 新彊ウイグル自治区の略称は「新」。中国の西北部に位置し、所謂「西域」に属する。中国の支配権が及ぶようになったのは漢。武帝の時代、西域都護府を置いてからである。唐代には北庭都護府と安西都護府が置かれた。新彊と呼ばれるようになったのは、清朝の光緒年間に新彊省となってから。新彊ウイグル自治区の成立は1955年。

 中国31の省・自治区・直轄市のなかで最も面積が広く、全国の六分の一を占め、日本全土の四倍をこえる。 一番多い民族はウイグル族。人口の半分を超える。他には、漢族以外、ハザク、回、キルギス、蒙古、シボ、タジク、ダフル、ウズベク、満州、タタール、スラブの11の少数民族が暮らす。 自治区全体が大陸性気候に属し、年間降水量が25-100oで乾燥をしている。また、一年を通じての気温の変化は激しく、夏は35度をこえる日が続く一方、冬には寒さが厳しい。同時に、一日の中でも温寒の差は大きく「朝には綿入れ、昼には半袖、夜は火鉢を抱えてスイカを食べる」などと表現される。  漢王朝以来、東西の交通路が開かれ、人や物の往来のみならず、宗教、文化の通り道となった。そのため多くの史跡を残す。
 ウルムチは比較的新しい街で、18世紀の後半、清朝のジュンガル部遠征以降、ここ(当時の地名は迪化)を西域管轄の中心にしてからのことである。上に述べた新彊省の成立はこのことをいい、1884年のことである。
 ウルムチとはモンゴル語で「美しい牧場」の意味であるが、ウルムチと名付けられたのは、1952年のことである。
 また、ウルムチはしばしば、「海から最も遠い町」などと言われる。東の黄海からも南のベンガル湾からも北のカラ海からも西のアラビア海、バルト海からも2300キロ以上離れている内陸の中の内陸である。

<新彊ウイグル自治区博物館>(しんきょうウイグルじちくはくぶつかん)

 ウルムチ市西北路にある。新彊ウイグル自治区で最大の博物館。建物自体にウイグルの特徴を持たせている。屋根は、緑色の円形ドーム。正面の外壁にも、内壁にも白い石膏で民族的な装飾が施されている。
 展示は、「歴史文物陳列室」と「民族民俗陳列室」と「ミイラ陳列室」に分かれている。
 特に印象に残るのは、「ミイラ陳列室」。楼蘭、トルファンなどから出土されたミイラが十体ほど展示してある。なかでも有名なのが楼蘭の美女。
 楼蘭は、シルクロード上のオアシス国家。史書へ登場するのは紀元前一世紀。匈奴の王が漢の皇帝へ宛てた書簡の中で、自分が支配する西域の国々の中のひとつとして言及しているのが肇である。その後、最盛期を迎えるのは三世紀。西域南道の東部を支配し、東西交易の要衝として栄える。
 やがて中国の王朝の支配を受けることになるが、七世紀を最後に全ての記録から姿を消してしまう。
 その楼蘭が再び、人々の前に姿を現したのは、二十世紀。スウェーデンの探検家・ヘディンにより遺跡が発見されてからである。

「楼蘭の美女」とは1980年に楼蘭の遺跡から発掘された女性のミイラである。埋葬の時期は紀元前1000年。45歳、157cm、O型。顎のやや尖った細面の顔だちで大きな眼をもつ。髪の毛は明るいブラウン。人種はヨーロッパ系。足には鹿の皮の靴を履き、頭には、鳥の羽根をさしたフェルトの帽子をかぶっている。
「民族民俗展」では、ウイグル族のほかハザク、キルギスなどの民族の住居、衣服、生活様式などを示す展示がされている。特に衣服については、それぞれの民族が持つそれぞれの色彩感覚が鮮やかに表現されていて興味深い。

<紅山>(こうざん)

 市の中心部にそびえる。市のシンボル的存在。岩肌が赤褐色をしているので紅山という。最も高いところで標高910メートル。登ると街全体を眺望できる。
 頂上に玉皇閣と高さ八メートルの鎮龍塔がある。鎮龍塔は氾濫を繰り返すウルムチ河の龍を鎮めるために建てられた。

<バザール>

 西域の街の楽しみとしてバザール見学がある。長い顎髭に男たち、鮮やかな民族衣装をまとった女たちを見ているだけでも楽しい。
 同時に、市場に所狭しと並べられた品々。麻の袋に詰められた色とりどりの香辛料。ナイフ。楽器。丸ごと裸で吊された羊。
 西域の活気と異国情緒が私たちを包む。

<ウラノール古城>(鳥拉泊古城)

 ウルムチの市街の南10キロ。唐代の輪台城とされる。輪台城とは、異民族との戦いの最前線であった城である。輪台城に宿営してい詩人・岑参はこう詠む。
 平沙莽莽黄入天 (沙漠はもうもうとして天は黄の色に染まる)
 輪台九月夜風吼 (輪台の九月 夜に風は吼える)
 一川砕石大如斗 (川じゅうに砕けた石があるが大きいものは一斗はありそうだ)
 随風満地石乱走 (風が吹けば石という石が乱れ走る)
 城壁が残っており、東西480メートル、南北550メートル、高さは4メートル。
 城内からは、陶罐、蓮花紋様の方磚、壺、古銭などを出土している。唐に始まり、元の時代まで使われていたと考えられている。

 ウラノール古城の東北二キロ、ウラノール・ダムの南斜面で古墳が発見された。1983年に発掘調査が行われているが、発掘されたのは46基。石棺墓と土坑墓がある。金製の耳飾り、銅鏡、陶器、小鉄器などが出土している。時代は、紀元前二、三世紀。サルマタイ系車師人のものと考えられている。

<天池>(てんち)

 ウルムチの東110キロ。ボゴダ峰の中腹にある。ボゴダ峰の標高は5445メートル、また、天池の標高は1980メートル。水の色は青々としていて、万年雪を戴くボゴダ峰と、それに抱かれるように広がる湖の取り合わせには鮮烈な美しさがある。
 中国の神話にしばしば登場する女神に西王母がいる。住処は崑崙山。伝説に、周の穆王が西に巡狩した時、西王母は瑶池で宴を開きこれをもてなした、とあるが、地元では、その瑶池が天池であると言う。
 辺りは深い森が続くが、森の中に点在する草原にはカザフ族のパオがある。

<南山牧場>(なんざんぼくじょう)

 ウルムチから南へ75キロ。天山山脈の北麓に広がる高原が南山である。広々とした草原とそれを横切る幾筋もの渓流がある。渓流は天山の雪解け水。
 カザフ族の放牧地である。草をはむ羊の群れと、馬に乗りそれを追う若者。
 遊牧の世界にしばし浸ることが出来る。
 南山で最も美しい風景と言われるのは、西白楊溝。水量ゆたかな滝がある。高さ40メートル、幅2メートル。緑の木々を縫うように一筋の白滝が断崖をなだれ落ちる。

<アラ溝木槨墓>(なんざんぼくじょう)

 アラ溝は地名。槨は棺の外側を覆う外棺のこと。竪穴式の墓室があり、そこに松の木で組まれた槨があり、そのなかに木棺がある。
 場所は、ウルムチし南山区。1976年から発掘が始められ85の墓が発掘された。そのうち木槨墓は六基。一〜二名ずつ合葬されている。副葬品には陶器、金器、銅器、漆器、絹織物、真珠、羊骨などがあるが、そのうち虎の紋様の入った金牌、獅子型の金箔の飾りなど獣面紋様の装身具は、紀元前三世紀から紀元四世紀にかけスキタイに代わって南ロシアを支配したイラン系遊牧民であるサルマタイ独特の動物紋様との共通性がみられ、関係が示される。
 また、同時に鳳凰紋様の絹の刺繍も発掘されており、中国との関係も明らかである。
 炭素一四の測定から中国の戦国時代から前漢時代のものだとされている。また、埋葬されているのは、民族的には、当時トルファン盆地に勢力を張った車師人ではないかと想像されている。
 現在、墓は、保護のため埋め戻されている。


トルファン(吐魯番)

 天山山脈の南東麓、トルファン盆地の中央にあるにあるオアシス都市。トルファンはウイグル語で「くぼんだ土地」の意。市の南にあるアイディン湖は、湖面が標高マイナス154メートル、世界で二番目に低い所にある湖である
。一番は死海でマイナス399メートル。
 古来、「火州」と呼ばれ、夏の平均最高気温は38度をこえる。一方、降水量は年間で25ミリと極端に少ない。
 北へ向かえば天山の北麓に、南に向かえば天山南路。その地理的な位置より、古くからシルクロード上最も重要な拠点のひとつであった。中国の前漢の時代には交河故城を王城として車師前国が栄えていた。玄奘三蔵法師がインドへ向かう途中立ち寄った時に栄えていたのは高昌国。唐は、その高昌国を滅ばしここに安西都護府を置く。その後、チベット、西ウイグル国、モンゴル、東チャガタイ=ハン国、カシュガル=ハン国、ジュンガル部が支配するところとなった。

<トルファン博物館>

 二階建ての建物。規模は大きくないが、出土品、ミイラなどにシルクロードの要衝としての歴史を感じさせる。
 一階には高昌故城、交河故城、ベゼクリク千仏堂、アスターナ古墳群などから出土した石器、木器、陶器、絹、麻や毛の織物、墓誌などが展示されている。
 二階は、アスターナ古墳群などから発掘されたミイラが展示されている。

<カレーズ博物館>

「カレーズ」はペルシャ語。「掘って水を通す設備」。山麓に地下水を掘り当て、その水を村まで引いてくる。引いてくる方法は、二、三十メートルごとに竪穴を掘り、それを横穴で繋いで水を通してくる。
 井戸はもっとも深いものでは70メートル近くにもに達する。また長さは、普通は3キロ程度、もっとも長いもので10キロである。
 トルファンには千二百本のカレーズがある。これにより、天山の雪解け水の伏流を引いてきている。これにより、中国で一二を争う乾燥地帯であるにもかかわらず、村の水路には水が溢れ、ポプラの並木が葉を風に揺らせながら日陰を作っている。トルファンは葡萄の産地として名高いが、それを可能にしているのもカレーズである。

<葡萄溝>(ぶどうこう)

 市街から東北へ10キロ。火焔山の西側の渓谷を利用して葡萄の栽培が行われている。幅1キロ、長さ9キロ。
 葡萄栽培の歴史は古く、5〜6世紀には麹氏高昌国で葡萄が栽培されていたと史書に記されている。
 トルファンで名高いのは「馬の乳房」と呼ばれる細長い薄緑の葡萄。乾しぶどうにもされる。

<蘇公塔>(そこうとう)

 市の中心部から東へ2キロ。イスラム建築の尖塔である。
 1779年に時のトルファン郡王のスレイマン(蘇来満)が父親の(エミン)額敏を記念するため建てた。別名、額敏塔ともいう。
 高さ44メートル。外壁は煉瓦の組み合わせて様々の紋様を描き出している。塔内も材を使わずに煉瓦を積みあげた螺旋形の支柱で塔を支えている。
 塔の下には教堂が建てられている。また、漢文とチャガタイ文の二言語で書かれ建塔の碑もある。

<高昌故城>(こうしょうこじょう)

高昌故城
 トルファンの市街地から東へ40キロのところにある。前漢はここに高昌壁をつくり漢人を入植させた。その後、五世紀から七世紀にかけ、漢人の麹氏が建てた高昌国
高昌故城
仏教寺院跡
の王城として栄えた。
 東西1.4キロ、南北1.5キロ。建物はすべて日干し煉瓦で造られていた。それが、風化を受け、ほとんど廃墟となって広がっている。
 それでも、王城、景教寺院、マニ教寺院、仏教寺院などの遺跡を判別できる。
 現在我々が目にする高昌故城は、麹文泰が建てたものと言われるが、玄奘三蔵をこの地へ招聘したのがその麹文泰である。628年のこと。玄奘はお礼に一ヶ月、仏教の講義をしたという。玄奘が、インドからの帰り、再訪しようとしたが、その時には唐によって滅ぼされた後であった。高昌国の滅亡は640年。玄奘の長安帰着は645年であった。
 唐は高昌国を滅ぼした後、安西都護符を、交河故城におくが、更にその後はウイグルの高昌国の王都として栄えた。廃されたのは明代前期。

アスターナ古墳
<アスターナ古墳群>

 トルファン市の市街の東南40キロ。高昌故城の北西4キロ。4世紀から7世紀にかけてこの地に栄えた麹氏高昌国の古墳群。墓の数は五百。葬られているのは、多くは漢族の豪族。家族ごとに埋葬されている。
 遺体はミイラ化し、同時に、副葬された埋葬品も保存状態はよい。絹織物、陶器、木器、貨幣、墓誌、文書類が発掘されている。なかで有名なものは、絹本の伏羲女蝸図、舞楽図、囲棋仕女図、牧馬図、樹下美人図、樹下人物図などである。
 なお、アスターナはウイグル語で「首府」の意。

<火焔山>(かえんざん)

火焔山
 トルファン盆地の中部に横たわる岩山。夏の強い光が当たると燃えるように赤くなる。地元の人は、キジル・タグ(赤い山)と呼ぶ。
 色が赤いばかりでなく、地質学では、地殻にはたらく力によって地層が波状に押し曲げられることを褶曲と言うがその褶曲運動により、山肌に縦に無数のひだが入っていて、赤い炎のように見える。
東西100キロ、南北10キロの、平均海抜約500メートルである。 『西遊記』の「唐三蔵火焔山に阻まれること 孫行者芭蕉扇を奪いとること」の一段が、ここを舞台にしている。
 三蔵が土地の老人に問う。
「ご当地は秋だというのに、どうしてこんなに暑いのでしょうか」。
 老人、答えて曰く、「この地は火焔山と申しましてな、春も秋もござらぬ。四季を通じて暑いの ですじゃ」。更に続けて、「ところ
火焔山
があたり一面、火がぼうぼうで、草一本生えておりませんな。そこを通ろうものなら、よしんば銅のあたまに鉄のからだを持っていたとしても、どろどろに溶けて汁になってしまいますじゃ」。(括弧内は中野美代子訳『西遊記』岩波文庫からの引用)
 そこで、燃える火焔山を過ぎるために、「ひとつ煽げば火が消える、ふたつ煽げば風おこる、みっつ煽げば雨が降る」という芭蕉扇を鉄扇公主から奪う話である。
 また、唐の詩人・岑参は「火山を経る」でこう詠う。
 
火山  今始めて見る

突兀(トッコツ)たり 蒲昌の東

赤焔 虜雲を焼き

焔氛 塞空を蒸す

知らず 陰陽の炭

何ぞ 独り此の中に燃ゆるや

我来るは厳冬の時なるに

山下に炎風多し<

人馬 尽く汗流る

孰(タレ)か知らん造化の功

<アイディン湖>(艾丁湖)

 トルファン盆地の南部にある。トルファン市からは南へ40キロ。アイディンはウイグル語で「月光」の意。湖上や湖岸が塩の結晶で白く輝いていることから付けられた。
 海抜はマイナス154メートル。中国でもっとも低い地点である。
 春は雪溶水が流れこむために水をたたえるが、夏から秋にかけては、強い日ざしのために湖水は蒸発し、湖底をあらわす。

<ベゼクリク千仏洞>

ベゼクリク千仏洞
 トルファン市から東へ60キロ。火焔山北麓のムルトゥク河の断崖に掘られた石窟寺院。幅400メートル。現存するのは64窟。開削は六世紀の麹氏高昌国に始まる。最盛期は十世紀、トルファンはウイグル高昌国の中心であったが、その頃のウイグル人はまだイスラム化しておらず仏教を信奉していた。そのウイグル人によって造られた。
 ウイグル人は九世紀の半ばに草原地帯からトルファン盆地に移住してきたが、それで、彼らは様々な宗教に出会った。仏教、マニ教、ネトリウス派キリスト教、ゾロアスター教など。そのなかで最初にから彼らと接触のあったソクド人商人の奉じていたのがマニ教であったからである。その後、時が経つにつれ、仏教やキリスト教に改宗するものが出てくることになる。
 ベゼクリク千仏洞のなかに、37窟など、マニ教の寺として造られながら仏教に改変したものが見られるのはそういった事情による。
 ウイグル人のイスラム化は、地域により、年代はかなりずれるとされている。ホータン地区で11世紀、クチャは12世紀、トルファンは最も遅く15世紀といわれている。
 ベゼクリクはウイグル語で「装飾された家」。華やかな壁画に飾られた窟が多い。ただし、またそれ故に、スタインなどの外国の探検家に壁を切り取られ持ち去られることにもなった。
 残された中で名高いのは第39窟の「各国王子挙哀図」。挙哀とは、葬儀のさいに遺族などが号泣して悲しみを表すことであるが、この図には西域のさまざまな民族の姿、衣装、髪飾りなどが描かれていて、当時の風俗、生活を偲ばせる。

<交河故城>(こうがこじょう)

交河故城
 トルファンの街から西へ10キロ。二本の河の交差するところにあるので交河故城という。中国の漢代の車師前王国の治所の所在地とされる。今から2200年ほど前のことになる。
 高昌故城が漢以降この地に進出した漢人の住処であったのに対し、交河故城は騎馬民族と思われる車師人の古くからの住処であった。ふたつの城は、70キロ離れながらそれぞれ独自の文化を保持していた。
 車師前王国の滅亡は紀元450年。その後は、交河故城も漢人の支配するところとなった。
 麹氏高昌国の時代には、高昌故城の副都的な存在で、交河郡城と呼ばれた。
 その後、唐は、麹氏高昌国を滅ぼすと 安西都護府を置いたがその在所が交河故城であった。
 現存するのは唐の時代と、それ以降のもの。東西1000メートル、南北300メートルの長方形をなし、東と南に城門がある。城壁はない。城内南部に幅3メートル、長さ350メートルの大通りが南北に貫き、その両側に崩れ落ちながらも土の建物群が残っている。その大通りを軸に三つに地区に分かれていたと考えられている。西北区は寺廟地区。寺の遺構や仏塔がある。東北区は居住区。小型の建物が並ぶ。東南区は大きな建物が多く、役所区であったとされる。また、大通りの北の先に版築で築いた仏教寺院があり、搭の上に置かれた仏龕に仏像が残っている。
 これらすべてが土で造られたものである。


コルラ(庫爾勒)

 コルラは天山山脈の南麓、タクラマカン砂漠の北縁に位置し、孔雀河が市内を流れる。孔雀河はタリム河の支流、かつては楼蘭王国を潤していた河でもある。
 そういう位置にあり、古くから、東にトルファン、西にクチャ、南に楼蘭、その三つの主要オアシスをを結ぶ要衝の地であった。
 近年はタクラマカン砂漠の石油発掘の前線基地として脚光を浴びている。人口も急速に増え、また、北京などからの直行便も開設されている。鉄路においては、コルラとトルファンを結ぶ南彊鉄道が1984年に開通し、さらにコルラからカシュガルまで工事が、1999年に完成した。トルファン〜カシュガル間は1451キロ。

<コルラ故城>(庫爾勒故城)

 三つの故城が確認されている。一つは市の南方1.5キロ。「玉子干旧城」と呼ばれる。周囲約1020メートル。ただし城壁はすでに崩壊している。城内に土を盛り上げた台があり、唐代のものと考えられる淡紅色の陶器の破片が散乱していた。
 二つめは、町の東北3キロ。「羊達克沁旧城」という。周囲330メートル。青灰色の陶器の破片が多く見られる。
 三つめは、「玉子干旧城」の南。名を「狭爾乱旦」という。周囲1080メートル。ここでも、「羊達克沁旧城」と同様、青灰色の陶器の破片が見られた。城壁は崩落している。

<鉄門関>(てつもんかん)

 コルラの市街の北8キロ。孔雀河の上流の峡谷の出口を利用した砦。トルファンからタリム盆地へ、あるいは、タリム盆地からトルファンへ入る要衝であり、守りが堅固であることから「鉄門関」と名付けられた。
 始まりは四世紀後半の前涼の時代。
 岑参は唐の詩人。西域に従軍生活を送り多くの辺塞の詩を残したが、その岑参が言う。「橋は千仞の危うきにまたがり、路は両崖のせまきにわだかまる」と。


クチャ(庫車)

 紀元前からのオアシス都市。漢の時代には「亀茲(キジ)国」と呼ばれた。自らも金属を産し、また、天山南路最大のオアシスとしての中継交易で栄えた。
 後に匈奴の支配下に入り、後漢の時代には班超に降り西域都護府が置かれた。「亀茲国」の滅亡は七世紀。唐に滅ぼされる。
 九世紀半ばには、北方の草原から移住してきたウイグル人が国を建て、亀茲ウイグルを名乗った。
クチャ・葡萄棚の
下の午睡
 クチャで有名なのは音楽と仏教遺跡。音楽は、「亀茲楽」と呼ばれる。中国の隋・唐時代、西域の音楽がもてはやされたが、その中心が亀茲楽であった。琵琶、ハープ、ひちりき、横笛、簫など多彩が楽器を用いてエキゾチックな音楽を演奏した。

 また、仏教遺跡に関しては、キジル、クムトラ、スバシなどの大規模の仏教遺跡を多く抱える。鳩摩羅什(350〜409)は中国仏教史上、最も大きな影響を残した高僧の一人であるが、鳩摩羅什はこの地に亀茲王の妹を母として生まれた(父はインド人)。仏典の漢訳にも力を注ぎ、「般若経」「 法華経」「維摩経」などの大乗経典35部294巻におよぶ翻訳を完成させたという。

 地名がクチャとなったのは、18世紀半ば、清朝のジュンガル部への遠征・平定の後のことである。


<亀茲故城>(きじこじょう)>

 市の中心から西へ一キロほど。土で築いた城壁の跡がある。周囲は七キロ。漢の時代の亀茲国のもので、後に唐が西域都護府を置いた場所でもあると考えられている。<BR>
 正式な調査が1957年に、中国を代表する考古学者である黄文ヒツにより行われている。出土文物としては、陶片、銅製品、玉製品、亀茲小銅銭など。

<モラナエシディン・マザー>

 市の中心から西へ700メートルほどにある墓。マザーは墓。モナラは「聖人の後裔」の意。エシディンが名前。エシディンは、クチャにイスラム教の布教に初めてきた伝道師と言われる。十四世紀の半ばのことである。祖先はプラハの出身という。
 エシディンはクチャとその周辺で伝道をし、この地に没した。
 墓は、大門、礼拝堂、墓門、墓室などからなり、いずれも緑色の琉璃磚で装飾が施された典型的なイスラム建築になっている。現在の姿になったのは、十九世紀後半である。

<クチャ大寺>

 クチャの中心から西へ4キロ。クチャ河をこえて行く。
 三千人を収容できる礼拝堂を持つこの地域最大のイスラム寺院。十六世紀の創設と伝える。
 宣礼塔楼、大殿、無名墓、学経房、宗教法廷などの建築からなる。特に宗教法廷が残されているのは珍しい。

<クチャ博物館>

 クチャ大寺の西北600メートル。「出土文物館」「織物館」「亀茲壁画館」「古銭幣館」からなる。スバシ故城で発掘された女性の骸骨、亀茲の銅銭、クムトラ千仏洞の壁画の模写などが展示されている。特に、クムトラ千仏洞の壁画の模写は非常に精密であり、また、見学には新彊ウイグル自治区文化部に申請をして許可を得なければならないこともあり、模写とはいえ、じっくり見る価値がある。

<スバシ故城>

 クチャの市街から東へ23キロ。チョルタク山の南麓にある。広漠とした沙漠にクチャ河が流れ、その流れに分けられるかのように、東西ふたつの寺が向かい合って建てられていた。
 玄奘三蔵が『大唐西域記』に記したチョグリ大寺だと考えられている。もしそうだとすれば、唐代には亀茲国最大の寺院であったところになる。
 周りの壁はすでに倒壊してないが、三つの塔、楼、僧坊、仏洞などの遺構が残り、当時の壮大な規模を彷彿とさせる。
 東区は、東西146メートル、南北535メートル。仏堂、北塔、僧坊などがある。西区は、東西170メートル、南北685メートル。南塔、仏堂、仏洞などがあり、仏洞の内部には人物壁画と亀茲文字による題記が記されている。また、このほか、漢〜唐代の貨幣や泥塑仏像、木簡や紙片が出土している。
 現在見学が出来るのは、西区だけである。

<キジル千仏洞>(キジルせんぶつどう)

 クチャの西75キロ、ムザルト河の北岸に穿たれた石窟寺院。236の石窟が確認されている。クチャ地区で最も大規模な石窟群である。開削の年代は三世紀から宋の時代。
 窟中の塑像はほとんど破壊されたか持ち去られてしまっている。また、壁画が残っている窟は74。
 壁画の主なテーマは、因縁物語、仏教説話、本生説話などの仏教故事。そのほか、当時の生活や風習を題材にしたものの少なくない。第38窟の伎楽図には、琵琶をひいたり横笛を吹く姿が描かれている。
 別名「青い石窟」とよばれることもあるが、それは、壁画の多くに青色が使われていて、それがひときわ鮮やかな印象を見る者に与えることによる。
 この青色の顔料は、ラピスラズリである。ラピスラズリ。日本では瑠璃と呼ばれる。古代エジプトでもメソポタミアでも珍重された稀少な石である。これをふんだんに使った壁画がキジル千仏洞の一つの特徴であるのだが、このラピスラズリはクチャ付近では産しない。これを産するのは世界で一か所、アフガニスタンである。クチャから隔たること3000キロ。この一事をもってしても、クチャの繁栄、東西交易の盛んさ、そして千仏洞に注ぎ込まれた当時のクチャの人々の情熱の大きさが知れよう。
 岩山の麓には近年鳩摩羅什の像が建てられている。キジル千仏洞と鳩摩羅什との間には直接的な関係はないが、鳩摩羅什がクチャの出身であること、そして彼が活躍をした時期と、千仏洞が盛んに開削された時期が重なることの縁による。

<クムトラ千仏洞>(クムトラせんぶつどう)

 クチャの西南30キロ。ムザルト川の渓谷の東の断崖に掘られた石窟群。蜂の巣のように窟が穿たれているが、その数、112。南北に分かれ、南に32窟、北に80窟。三世紀から十一世紀にかけての開鑿、最も多いのはウイグル高昌国(531〜640年)の時である。
 窟内はすべて破壊されているが、保存の良い状態の壁画が三十余残されている。

<クズルガハ千仏洞>(クズルガハせんぶつどう)

 クチャの西10キロ。5〜6世紀に開鑿され、キジル千仏洞よりはややおそい。現在残されているのは46窟。仏陀の本生説話と因縁説話、捨身飼虎図などの他、飛天や武官を描いたものなどがある。

クズルガハ烽火台

<クズルガハ烽火台>(クズルガハほうかだい)

 クチャの西10キロ。漢の時代の烽火台。漢は班超を使わし西域諸国を平定するが、その時、クチャには西域都護府が置かれる。匈奴との戦い、諸オアシス都市との抗争の最前線での情報伝達のために多くの烽火台が築かれたが、そのなかでも最も古い部類にはいると考えられれている。
 高さ16メートル。上が展望のための台になっており、それを囲んでいた木の柵を今でも確認できる。


カシユガル(喀什)

 タクラマカン砂漠の西端。パミール高原の北麓。新彊ウイグル自治区の西南部に位置する。タリム盆地の北縁に沿って続く天山南路の西端でもあり、タリム盆地の南縁の西域南路の西端でもある。
 両道はここで合流し、パミールを越えてインドへ、あるいは、西北に路をとりタシケント・サマルカンドへと続いていった。
 カシュガルとは、古代イラン語やペルシャ語で「玉の市場」を意味すると言う。玉とは、勿論、コンロン山脈で産するホータンの玉をいう。あるいは、ウイグル語で「色とりどりの煉瓦で出来た家」の意とも言う。
 中国の歴史に登場するのは前漢の時代。疏勒と呼ばれ、西域三十六国のひとつであった。その後、匈奴の支配下に入るが、後漢の時代、一時的にではあるが班超の活躍により西域都護府が置かれる。
 九世紀以降にはモンゴル地域より大量のウイグル人が押し寄せてくることになるが、その後のカシュガルの姿を決定的にしたのは、十世紀にカシュガルを拠点にしたカラ=ハーン朝の成立である。ひとつはトルコ化(ウイグル化)でありひとつはイスラム化である。それをカシュガルにもたらしたのがこの王朝であった。
 カシュガルと呼ばれるようになったのもこの頃からであると言われる。
 その後、チャガタイ=ハーンの統治以降は、カシュガル=ハーン、
オイラートのジュンガル王国の支配を受け、清朝が支配を確立するのは十八世紀、乾隆皇帝のジュンガル派兵による。清軍のカシュガル占領は1759年である。
 十九世紀後半から二十世紀にかけては、またその重要な地理的な位置ゆえに、ロシア、イギリスの勢力争いの激突の場となる。両国がカシュガルに領事館を置き熾烈な情報戦が展開された。
 現在のカシュガルは、人口22万、ウイグル族がその74%を占める。ウイグル族の他、ウズベク、キルギス、タタール、オロスなど多くの少数民族が暮らしている。

<エイティガール清真寺>(エイティガールせいしんじ)

 市の中心にある中央広場の西北の門にある。新彊ウイグル自治区最大のイスラム寺院。「エイティガール」とはアラピア語とベルシア語の合成語で、「祝
祭日に礼拝をする場所」という意味。創設はイスラム暦846年(1426年)と伝える。その後、たびたびの拡張があり、現在の姿になったのは十八世紀。
 南北140メートル、東西120メートル、面積1万6000平方メートル。
 正面には門楼が建つ。高さは12メートル。上部にはコーランがアラビア文字で記されている。門楼の左右には高さ18メートルの円筒
形の尖塔が建つ。壁面にはウイグルの紋様がびっしりと彫り込まれている。なかの主な建物は礼拝堂と教経堂。礼拝堂は面積2600平方メートル、4000人の信者が礼拝をすることができる。  寺院が特に賑わうのはイスラム教の祭日であるグルバン節(犠牲祭)とローズ節(断食明けのお祝い)には数万の信者が訪れる。

<香妃墓>(こうひぼ)

 市の東へ5キロ。ホージャー一族の墓。創建は1670年。アパク・ホージャーが父親ユースフ・ホージャーのために造ったのが始まり。
「ホージャー」とはイスラム教の聖者の称号である。彼ら一族はサマルカンドからカシュガルに移り住んだイスラム教の指導者の家系であるという。そのなかで最も力を発揮したのがアパク・ホージャーで、カシュガルにおいて強力な宗教的政治的権威を獲得した。それ故、彼が父のそばに葬られた後は、「アパク・ホージャーの墓」と言われてきた。
 その一族の墓地の中に「香妃の棺」が置かれ、現在は「香妃墓」と呼ばれるようになった。香妃に関する言い伝えはどこまでが真実でどこまでが伝説なのかは不明であるが、現地に伝わる言い伝えとしては次の通り。
 カシュガル生まれのウイグル族の名家の娘が清の乾隆帝に嫁いだ。身体からかぐわしい香りを漂わせていたことから「香妃」と呼ばれた。不幸にも病死をしてしまい、遺体は、124人の従者によって担がれ、遠くシルクロードを辿り三年半かかって生まれ故郷のカシュガルまで運ばれここに葬られた、と。

<ユーフス・ハズ・ジャジェブ墓>

 カシュガル市の第十二小学の構内にある。ユーフス・ハズ・ジャジェブは十一世紀のウイグル人。カラ=ハーン朝の時代、ベラサグンで生まれ首都、カシュガルで大侍従の地位にあったときにた著した『幸福になるのに必要な知識』という書で知られる。
 なぜ、この書が有名かというと、アラビア文字を用いたトルコ語で書かれた世界最初の文学作品、と言われるからである。
 なぜ、「アラビア文字を用いたトルコ語」、が問題になるかというと、トルコ人・ウイグル人のイスラム化というテーマに貴重な資料を提供するからである。
 九世紀に遊牧トルコ族であるウイグルが甘粛の北のモンゴル草原から大挙してタリム盆地さらには中央アジアのオアシス地帯へ、移住し、定住化する。これは、遊牧史上の一つの謎であるのだが、いずれにしてもこれにより、この地域のトルコ化がおこる。ウイグル人が最初に出会った宗教はマニ教であり仏教であったが、同じ時期、アラビア半島で興ったイスラム教の波が東へ押し寄せてくる。そこで、トルコ人・ウイグル人はイスラム化し、中央アジア、タリム盆地がイスラム化する。そういう大きな歴史のダイナミズムのなかで、「アラビア文字を用いたトルコ語の文学作品」が脚光を浴びることになるのである。

<マフムード・アル・カシュガリー墓>

 カシュガルの西南45キロ。マフムード・アル・カシュガリーは、十一世紀のカラ=ハーン朝の貴族。カシュガル出身のトルコ人である。アラビア語で書かれた『トルコ語辞典』で知られる。
 これが書かれたのはマフムード・アル・カシュガリーがバクダットに滞在中であるが、彼は、東は東ローマ帝国から西はタリム盆地のオアシス地帯まで、トルコ人の住むところはおよそ遍歴し尽くし、トルコ語の諸方言を採集した。その採取した単語をアラビア語で説明をしたのが『トルコ語辞典』である。
 3巻8編からなり、7500語を収録する。
 この辞書は次の二点を証明するものだと言われている。
 ひとつは、中央アジアのトルコ化。もうひとつは、イスラム世界のなかでトルコ語が、アラブ語やペルシャ語とならんで主要な言語としての地位を持ち始めていた、ということ。

<ハンノイ故城>

 カシュガル市から東北へ28キロ。東西10キロ、南北6キロの広大な規模の遺跡である。唐代の疏勒の都城と考えられている。城壁、堡塁、房舎、農地、用水路などの遺構が残されている。
 出土された古銭には、唐代、宋代の中国銭のほかアラピア語を鋳ってある四角い穴のあいたアラビア銭もある。
 十世紀以降カシュガルにはカラ=カーン朝の都が置かれ、タリム盆地のトルコ化、イスラム化の基地となるが、そのカラ=ハーン朝の初期の都城としても使われていたものと思われる。

<モール仏塔>

 カシュガル市から東北へ30キロ。唐代から十世紀頃にかけて造られたと思われる仏塔がある。中国最西端の仏教遺跡とされる。

<カラクリ湖>

 カシュガル市から南へ196キロ。中国とパキスタンを結ぶのが中パ公路。その途中にあるのがカラクリ湖である。標高は3600メートル。ムスターグ・アタ(7546メートル)とコングール(7719メートル)に挟まれた高原にある。
 ムスターグ・アタは分水嶺になっていて、これより南の川はヤルカンド方面に、北の川はカラクリ川となりカシュガルへ流れる。
 紺碧の湖面に、真っ白いコングールが影を映す。
 辺りで放牧生活をするのはキルギス族。
 高度が高いこと、夏でも気温が低いことに気をつける必要がある。

<バザール>