ラサに限ったことではない。チベットじゅうがそうである。山がある。そこに寺がある。寺にはいくつかの堂がある。堂には聖なる仏像があり、廟がある。人びとは仏像の周りを右回りにコルラする。廟の周りを右回りにコルラする。堂ごとにその周りを右回りにコルラする。そして、山に沿って寺の周りを右回りにコルラする。人びとは右手に手マニ車を廻しながら、左手に数珠を繰りながら、コルラする。
小さな渦がある。その渦を取り囲む渦がある。その渦を、また、取り囲む渦がある。その渦が無数にあって、どれもが右回りに廻っている。その無数の渦をもうひとつ囲って、それ自体が右回りに廻っている祈りの渦が「チベット」なのである。
礼拝の対象を常に右に見ながら巡る右繞の礼法は仏教以前から古代インドで行われていたもので、それが仏教にも伝わったという。
尊いものは右にある。どういうことであろうか?
ただ、ジョカンを歩いていても稀に、逆回りの人に出会う。彼らはボン教徒なのだそうである。
ボン教というのは、仏教伝来以前のチベットに広まっていたアミニズムである。山や峠や湖や河に精霊と悪霊の気配を感じ取り、積石をしたり、ヤクの頭の骨を捧げたり。インドからの外来宗教である仏教がチベットの地に根付くには、ボン教との葛藤と宥和が幾世紀にもわたってあった。経文を五色の布に刷り峠や屋根に掲げる。風が経文を読む、という。書いてあるのは仏教の経文だが、「風に読ませる」という意匠は、明らかにボン教のものである。
そのボン教徒は聖なるものに対して左回りに廻る。カイラスでも。
もともとの礼法と言うより、仏教伝来後、仏教への対抗上意図的にそうしたといわれている。
チベットに馴染みの深い日本人として真っ先に思い浮かぶのは河口慧海と西川一三である。一方は、明治の30年代、大乗仏典の原書を求めて単身、鎖国中の、チベットへ向かう。一方は、第二次世界大戦の終戦を挟んで、モンゴル人に変装して蒙古から青海を越えてラサへ辿り着く。その体験記『チベット旅行記』と『秘境西域八年の潜行』は、読むに身震いがするほど凄い本であるが、ともに、ツアンバについての記述も多い。
河口慧海が関所を避け、雪のヒマラヤを越えてチベットに向かう場面である。
| 年代 |
出来事 |
| B.C560年頃 |
ブッダ生誕。29歳で出家、35歳で悟りを得る。以後80歳で入滅するまで教化の旅を続ける。彼の教えが、のちに、チベットの歴史に決定的な影響を与えることになる。生没年については、別に、BC463〜BC383などの諸説がある。 |
| B.C500年頃 |
初めての王朝がチベット高原南部ヤールン地方に成立。初代の王はニャティ・ツェンポ。天から降りてきたとも、インドからきたともいう。 |
| B.C140年 |
第八代王ドリグム没す。初代から七代までの王は死後梯子を伝って天に帰ったとされるが、八代ドリグム以降は、梯子を失いこの地に葬られることになったとの伝説あり。
九代の王はドリグムの子のポデグンヤル。このボデグヤルによってボン教が王家に導入されたという。 |
| 230年 |
第二十八代の王トリ・ニャンツェンの時に、仏教の経典がチベットにもたらされたという伝説が今に伝わっている。 |
| 630年 |
ソンツェン・カンボが第三十三代の王位に就く。彼の時代、国力強く、唐とネパールより妃を得る。また、トンミ・サンボータをインドに遣わし仏教の勉強をさせる。現存するチベット最古の仏教経典はトンミ・サンボータが持ち帰ったものとされる。帰国後仏教経典のチベット語訳に献身する。(在位:630〜649年) |
| 649年 |
ソンツェン・カンボを継いで、マンソン・マンツェンが王位に就く。東部国境で唐との戦いが続くが、常に戦況を優位に保つ。(在位:649〜676年) |
| 649年 |
ラサで天然痘が大流行。メアク・チュォム王(在位:704〜755年)ボン教僧侶たちの、「天然痘の流行は、新しい教を導入したことへのチベット古来の神々の怒りだ」との主張を容れ、仏教を弾圧。 |
| 763年 |
ティソン・デツェン王(在位:755〜797年)、唐の長安を攻め占領。 |
| 765年 |
ティソン・デツェン王、仏教再興のためインドの高僧シャーンタラクシタを招聘。シャーンタラクシタはのちにインドの高名な密教者・パドマサンバヴァをチベットに呼ぶ。チベット仏教四大宗派のひとつであるニンマ派(古派)はこのパドマサンバヴァの教えを後ろ盾とする。(在位:755〜797年) |
| 779年 |
ティソン・デツェン王、チベット初の仏教僧院であるサムイェ寺を建設。併せて、仏教を国教とする。 |
| 821年 |
唐との盟約成立し国境線の確立、「唐蕃会盟碑」が三碑建てられる。ジョカンの前に建つ石碑がそのうちの一つである。時の王は、ラルパチェン(在位:815〜836年)。 |
| 836年 |
ラルパチェン王、仏教反対派により暗殺さる。ボン教擁護者の兄のランダルマ王位に就く(在位:836〜843年)。ランダルマ王、仏教を迫害。 |
| 843年 |
ランダルマ王、ベルギェ・ドルチェにより暗殺される。これにより、チベットは幾つもの地方政権に分裂。この状態が四百年続く。 |
| 1042年 |
チベット西部の国グゲ国がインドからアティーシャを招聘する。アティーシャの教えは、やがて、チベット全土に教えは広がり、仏教が復興することになる。彼の主著『覚りに至る道を照らす灯』の思想は、その後のチベット仏教の流れを決定する画期的なものであった。 |
1240年 |
チンギス・ハンの攻撃にさらされ、諸侯は朝貢を約す。 |
| 1247年 |
サキャ・ラマがゴーダンの求めに応じモンゴルへ向かう。ゴーダンの信任を得たサキャ・ラマは甥のパクパとともに仏教経典のモンゴル語訳を進める。ゴーダンは、サキャ・ラマにチベットにおける政治・軍事の後ろ盾となった。 |
| 1254年 |
パクパが、フビライ・ハーンよりチベットにおける政治支配権を与えられる。 |
| 1271年 |
フビライ・ハーンが元王朝の皇帝の位に就く。 |
| 1368年 |
元王朝滅び、明王朝が成立。 |
| 1409年 |
ツォンカパ、ラサの東にガンデン寺を建てゲルク派の本山とする。四百年前のアティーシャの厳格な戒律主義を継ぎ、当時の堕落したチベット仏教の大改革を実践。 |
| 1578年 |
デプン寺(ゲルク派)貫主であったソナム・ギャンツォはモンゴルの王侯・アルタンハンの要請を受け青海にが赴くが、そこでアルタンハンの帰依を受け、同時に「ダライラマ」の称号を受ける。ダライはモンゴル語の「大海」、ラマはチベット語の「師」の意味である。
強力な軍事力を有するアルタンハンの帰依を受けたことで、ゲルク派は圧倒的な支配権を持つことになる。
この時点で、転生活仏の制度が採用されており、ソナム・ギャンツォの一代前の転生者とされるゲンドゥン・ギャムツォと二代前の転生者とされるゲンドュン・トゥプパがそれぞれダライラマ二世、三世と追認された。 |
| 1642年 |
ダライラマ五世の就任。ダライラマがチベットの宗教、政治の双方における最高権力者として君臨するようになるのは、五世の時代からだといわれる。
モンゴル・ホショット部の首領グシ・ハーンの支援を得ることで全チベットの支配権を手に入れる。
七世紀の英雄、ソンツェン・カンボが砦を築いたマルポリの丘にポタラ宮を建設する。ポタラは観音の聖地を意味し、ダライラマは観音菩薩の化身であるという民衆の間に広まっていた信仰を確固たるものにするための「ポタラ」という命名であったとされる。
同時に、ソンツェン・カンボが吐蕃王国の最盛期に担った栄光を自らの権威に取り込もうと意図したことは明らかである。
パンチェンラマ制度を創始したのもダライラマ五世であった。パンチェンラマは阿弥陀如来の化身とされていたが、ここにダライラマ同様の転生制度を導入し、転生者をツァン地歩のタシルンポ寺の貫主とすることにした。五世の意図としては、ツァン地方の統治を安定的にするためのものであったが、実際には、その後パンチェンラマの宗教的権威が高まるにつれ、両者の間に不和が生じることになる。 |
| 1735年 |
清朝はラサに駐蔵大臣を置く。ダライラマ七世の時代。これにより、ダライラマ五世の時に確立したダライラマの政治的権限は、大きく制限されることになる。 |
| 1895年 |
ダライラマ十三世の親政はじまる。彼は、五世の時代のように、他国の干渉を排した中央集権的な国家の樹立を目指す野心家であった。 |
| 1910年 |
清の軍隊がラサを攻撃。ダライラマ十三世はインドへ亡命。 |
| 1911年 |
辛亥革命。清滅亡。 |
| 1913年 |
ダライラマ十三世インドから帰国。チベットに残っていた清の兵隊を一掃し、独立を宣言。(ただしこの独立宣言は国際的には承認されなかった) |
| 1940年 |
ダライラマ十四世、即位。 |
| 1950年 |
中国軍のチベット侵攻。 |
| 1959年 |
ダライラマ十四世、インドへ亡命。 |