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北京 - 独断・偏狂の私的旅行記
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八達嶺長城
もう冬だからだろう。いつもは観光客でごった返している長城の登り口も、その日は人もまばらだった。登り初めて四番目になるのだろうか、ひときわ高い楼台を、息を切らして、登り切る。次の瞬間、アッと息を飲む。何という雄大さだ。
空気は清冽。風は寒烈。空はどこまでも青い。その空の下に重畳として峰峰が連なっている。右を向いても左を見ても、その峰峰の果てるところはない。その峰峰に沿ってうねるように煉瓦の壁が連なっている。三百メートルほどおきに楼台がポツンポツンとアクセントを付けている。峰峰が果てることのないように、長城も視力の限りうねり続けている。楼台もアクセントを刻み続けている。
その楼台を過ぎるとだらだらとした上り下りが続くが、その辺りまでくると、まったくと言っていいほど人影はない。見えるのは山と長城と青空だけ。聞こえるのは風の音だけ。
歩き疲れて煉瓦の階段に腰をおろす。身体の火照りを感じながら、大きな風景のなかでボーッとするのは何とも心地よい。
六千キロの壁。自分が日本人であるからだろうか、この距離がどうもうまく想像できない。長さばかりではない。二千年。中国人は、戦国時代から明代まで二千年の長きにわたりこれを造り継いできた。凄いことだ。ある中国人は言う。守るためだけのものであること、それが誇りだ、と。別な中国人は言う。塀で囲って閉じこもる。中国の閉鎖性の表れである、と。日本人の私は、ただ唖然とするばかりだ。「どちらにしても、とにかく、よく造ったな」。驚くべき執
。エネルギーの横溢とでも言えばよいのか。外敵を防ぐに実践的な役割を果たしていないという説もあると聞く。本当だろうか。だとすれば、何というエネルギーの浪費。それにしても、よく造った。中国人にして初めて造り得たものであることだけは間違いなさそうだ。
気が付くと、身体がすっかり冷えてしまっている。いつの間にやら、大きな西の空が赤く染まり始めている。
(中日新聞・東京新聞の2001年1月28日日曜版に掲載)
北京・天橋
かつて「天橋」というカオスがあった。民衆の享楽のすべてが揃っていた。芝居小屋、露天の市、酒楼、茶屋。芸人がいて、遊女がいて、乞食がいて、遊興の客がいた。
「天橋の芸人雲霞の如し」。
一尺の剣を呑む者。石を頭で割る者。白砂を手でまいて地面に達筆の字を書く者。蛙や蟻を使った芸もあった。懐から瓶を取り出し、「体操」と叫ぶと、黒と褐色の二色の蟻が何百匹も出てくる。混ざり合って動いているが、「整列」と叫びながら米粒をまくと、黒と褐色の二列に分かれ整列をする。さらに、「終わり」と声を掛けると、瓶に戻る。不思議な芸だ。その後、後を継ぐ芸人も蟻もいない。
芸人たちは己の一芸にすがり口に糊した。人々はその芸に一日の憂さを晴らした。
酒旗戯鼓天橋市
多少游人不憶家
清末の詩人、易順鼎の《天橋曲》の一節である。酒屋の旗、芝居の太鼓。ここに遊ぶは家を憶わず。天橋を歌って巧みだ。切ないほどだ。家を本当に忘れている者は、「家を憶わず」とは言わない。生の切なさを埋めること
のできる享楽などありはしない。だからこそ、享楽に浸りたい。そういう切なさなのだ。
前門から南へ一キロ。天橋の名は残るが、かつての賑わいもさんざめきも今はない。そのなかで、昔の天橋を唯一偲ばせるよすがは、「天橋楽」である。一階には舞台と客席、二階には桟敷席を回廊状に巡らす構造は、往事の劇場そのままである。演しものは大分変わった。剣を呑むやら石を割るやらは流行らない。輪くぐりや鳥の鳴き真似などの品の良いものが主流だ。それも時代の流れというものだろう。それでも、舞台の両脇には《天橋曲》のあの詩句が掲げられ、天橋のかつての輝きの残光を放ちながら、享楽への憧れと切なさを今に語り継いでいる。
(中日新聞・東京新聞の2001年11月04日日曜版に掲載)
北京の春節
春節を迎える街の雰囲気は一種独特なものがある。
所謂旧正月。そう、中国では正月を農歴で祝う。何週間も前から街全体が華やいでくる。あちらこちらに大きな赤い提灯が飾られ、店先には春節ならではのものが並ぶ。赤いひもで様々な模様をあしらった「中国結び」。「窓花」と呼ばれる窓に飾る切り紙細工。「春聯」もある。
昔から、一対のめでたい詩句を二枚の縦長の紙に書き門に貼り付けておく習慣がある。それを春聯という。新しい春聯を貼るのは、年に一度、春節の時である。「さあ、春聯を貼るよ」。お爺ちゃんが孫たちに声を掛ける。孫たちは走って門に集まる。何代にもわたり繰り返されてきた大晦日の光景である。
大晦日には家族が揃い餃子を包む。遠くに暮らす息子も孫を連れこの日を目指し戻ってくる。それが大晦日。
一夜明けると正月。年寄りは子供や孫の挨拶を受ける。子供たちは
赤い袋に入ったお年玉をもらう。そして揃って廟会に行く。道教のお寺だったり、チベット仏教のお寺だったり、公園だったりする。場所は問わない。人が多ければそれでよい。人が雑踏をなし、雑踏が人を呼ぶ。
太鼓あり笛あり踊りあり。誰もが浮かれている。浮かれるためにここに来る。猿回しがいて、コマネズミを使った芸があって、人形劇もある。若者は高さ二メートルの竹の下駄を履いて「高脚踊り」、おばちゃんたちは扇子を振って「収穫踊り」。観る方も楽しい、やる方はもっと楽しい。
射的に興じ、弓矢や輪投げに歓声が上がる。独楽にデンデン太鼓、凧、風車、飴細工、綿飴。焼きそば、トウモロコシ、シシカバブー。
オモチャ箱をひっくり返したようだ。楽しいことがグジャグジャになってばらまかれている。春節の廟会の雑踏は春を迎える喜びであり、北京の味わいである。
(中日新聞・東京新聞の2003年2月23日日曜版に掲載)
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天安門
中国のシンボル。北京市の市街中心部に位置する。
明・清両期の皇城の正門で、創建は明の永楽15年(1417)。初めは承天門といったが、清の順治8年(1651)の改築後、現在名に改称。宮殿建築の二階建ての楼閣で高さは33.7m。下の部分は城門で、通路が五つある。その城門の中央には毛沢東の肖像が掲げられている。その上に建つのが天安門の城楼で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁。きわめて壮麗である。
明、清時代には皇帝の即位や皇后の冊立などの重大な国事の際はこの楼上よりみことのりを発した。1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を世界に向けて宣言したのもこの楼上である。
城楼の下を流れる金水河には、精緻な彫刻を施した漢白玉石の「金水橋」と呼ばれる橋が五つ架かる。
前面には、雄壮な石獅と華表が一対ずつ配されている。華表というのは中国で皇宮などの前に建てる標柱で、ここでは漢白玉石の円柱に彫刻が施されている。
また、正面には長安街をはさんで南側には東西500m、南北880mの天安門広場が広がる。天安門を背に左には中国革命博物館・中国歴史博物館、右には人民大会堂がそびえる。中国の首都・北京を象徴する堂々たる景観を誇る。
現在は門の上に上ることが出来る。そこから見渡す天安門広場はまた格別。楼内には、1949年10月1日に毛沢東が楼上から新中国の成立を宣言する場面を描いた絵が掛けられている。
天安門広場
総面積40万平方メートル。世界で最も広い広場のひとつである。一度に五十万人を収容できる。南北は、天安門から正陽門までの880メートル。東西は、人民大会堂から歴史博物館までの500メートル。
明清時代には皇帝の即位などに使われる聖なる場所であった。明・清の時代の地図に描かれている現在の広場は、南北に長い「T」字型で、両側には役所が並んでいた。1911年の辛亥革命以後一般に公開されるようになり、49年の建国の式典の時に広場として整備され、58年に人民英雄記念碑が、建国十周年の記念に人民大会堂、歴史博物館、革命博物館が、そして77年には毛主席記念堂が建てられ現在の姿になった。
新中国を象徴する聖域として存在でもあり、それだけに転換期におけるさまざまな事件の舞台にもなった。文化大革命のころには毛沢東語録を掲げた紅衛兵の大集会の会場であり、1976年、故周恩来首相を追悼する民衆が人民英雄記念碑に捧げた花輪を、当局が撤去したことに抗議したことに端を発しやがては四人組追放へと政治を動かすことになった第一次天安門事件、また、一九八九年民主化運動を武力で封じ込めた第二次天安門事件が起きたのもこの地である。
正陽門(前門)(せいようもん)
俗称に前門ともいう。天安門広場の南側にある。明・清両代の北京内城の正門である。かつては、皇帝の居城としての紫禁城があり、それを内城が囲み、その外側を外城が取り囲む、という構造になっていたが、正陽門はその内城の正門。
内城には九つの門があったが、完全な形で残っているのは正陽門のみ。
城楼は明の北京遷都決定とほぼ同時の永楽19年(1421)の建造。高さ42m・間口柱間7間。
正陽門の南側に建つのは箭楼。文字通り、矢を射るための楼城で、壁には矢の射出孔が開けてある。明の正統4年(1439)の建造で、城楼と箭楼の下には車馬の通るヴォールト式の通路がある。箭楼は清の乾隆45年(1780)と道光29年(1849)に焼失、また光緒26年(1900)に城楼は8か国連合軍に破壊され、箭楼も戦火にみまわれたが、いずれもただちに再建。
1916年から度々大改修が行われ、現在の外観を呈するにいたった。北京に現存する最も大きな城門である。現在内部は公開されており、北京のかつての建物や町の様子の写真が展示されている。
毛主席紀念堂(もうしゅせききねんどう)
北京市の市街中心部、天安門広場の南端にある。
毛沢東逝去は1976年9月。その11月に着工し、翌77年8月に落成。東西220m、南北260mの敷地に1辺105.5mの正方形の雄大な建物。44本の花崗岩の柱をめぐらし、高さ33.6m、地上2階、地下1階である。
正面玄関の上部に「毛主席紀念堂」という金文字を彫った漢白玉石の扁額を掲げ、玄関を入った正面の北ホールには、中央に高さ3m余りの漢白玉石の毛沢東の坐像が置かれ、その背後に祖国の山河を描いた巨大な刺繍画がかかる。
瞻仰ホールは紀念堂の中心をなし、正面の白色の大理石の壁に「偉大な領袖にして教師毛沢東主席は永遠に不滅である」という金文字が彫られ、あざやかな花のなかに水晶
製の棺が安置され、毛沢東の遺体は胸から下を深紅の中国共産党の党旗で覆われてい る。
東西の部屋には毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳などの革命の元老たちの記念室となっている。
南ホールの漢白玉石の壁には毛沢東の詞「満江紅 郭沫若同志に和す」が自筆で、金文字に彫られている。
人民英雄紀念碑(じんみんえいゆうきねんひ)
天安門広場の中央にそびえる高さ37.94mの石碑。1958年4月に竣工、5月1日に盛大な除幕式を行った。
台座は2層に分かれ、ともに四方に漢白玉石の手すりをめぐらし、四面に石段が設けられている。下層の周囲には、アヘン戦争から長江渡河まで、百年にわたる革命の歴史を描いた10枚の巨大なレリーフがある。レリーフは中国の彫刻家と石工たちが5年がかりで彫り上げた。高さ2m、総延長40.68mで、170人余りの人物が彫られている。
碑は高さ14.7m、幅29m、厚さ1m、重さ60t余りの大石で、正面(北面)に毛沢東撰・筆の「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永遠に不滅である)の八つの金文字が彫られ、裏面には周恩来の手による、革命闘争で犠牲になった英雄たちを称える題詞が刻まれている。
国旗掲揚台(こっきけいようだい)
広場の北端に国旗掲揚台がある。日中は五星紅旗が翩翻と翻る。掲揚台の周りは夏の炎天下でも冬の寒風の中でも直立不動の姿勢で微動だにせぬ衛兵に守られている。
それを取り囲む見学者も多い。特に人出が増えるのは国旗降揚の儀式の時間帯。毎日、日の出の時間に掲揚し、日の入りの時間に降ろす。
中国歴史博物館(ちゅうごくれきしはくぶつかん)
天安門広場の東側にあり、1959年に落成。十一本の大きな柱が並んでいる正面入り口を入ると、右(南)側が歴史博物館、左(北)側が革命博物館。両館あわせて延床面積は6万5000uである。
中心をなす中国通史陳列は、古代から近代までに関する展示物を陳列する。中国の歴史区分では、19世紀なかば近くまでを古代とし、アヘン戦争から1919年の五・四運動までを近代、それ以後を現代とするが、本館ではアヘン戦争までを展示対象とし、それ以後は隣の革命博物館の展示となる。
中国革命博物館(ちゅうごくかくめいはくぶつかん)
天安門広場の東側にあり、1959年に落成。歴史博物館と同じ両館一体の広大な建物。対象展示物はアヘン戦争以後となる。(それ以前は隣の歴史博物館の展示)
中心をなすのは中国共産党史の展示で、展示品は3300点余りにのぼる。また、さまざまなテーマの展示や革命の先人の業績についての展示も行う。マルクス・レーニン主義・毛沢東思想・中国共産党史を宣伝し、青年たちに革命的伝統の教育を行うことを目的としている。
中山公園(ちゅうざんこうえん)
天安門の西隣にある。面積は74ヘクタール。正面は長安街、裏面は故宮の筒子河に臨む。中心をなすのは社稷壇(しゃしょくだん)と拝殿など。
明朝は皇城の南に左右対称に太廟と社稷を造った。太廟は先祖を祭るため。社稷は五穀豊穣を祈るため。その社稷の跡が、中山公園である。
柏の老木が有名で、樹齢数百年のものが1000本以上もあり、南門内にある7本は遼・金代の興国寺のころからあったものという。社稷壇の北側にある中山堂は、かつての社稷殿(しゃしょくだん)で、皇帝が休んだり、雨中で祭祀をしたりするのに使った。明の洪煕元年(1425)の創建。1925年に孫中山(孫文。1866〜1925)の死後、一時その棺を安置したことがあり、それにちなみ、1928年に現在名に改称された。
中山公園の中心をなす社稷壇(しゃしょくだん)は明の永楽19年(1421)の築造で、明・清両代の皇帝が社(土地の神)と稜(五穀の神)を祭って豊作を祈願したところで、毎年、春と秋の仲月(旧暦の2月と8月)の一の戊の日の早朝に祭典が行われた。上壇は中央が黄色、東が青色、西が白色、南が赤色、北が黒色という、五行思想(木・火・土・金・水)を象徴する五色の土を敷き詰めている。
柏の大木群と古びた社稷壇が相まって独特な古色蒼然たる雰囲気を醸し出している。
故宮博物院(こきゅうはくぶついん)
旧称を紫禁城といい、北京市の市街中心部にある。
明・清両代の皇宮で、明の永楽4年(1406)に着工、同18年に基本的に完成し、それ以来、560年余りの間に24人の皇帝が主となった。
72万u余りの敷地に9000室余りの建物があり、延床面積は約15万u。周壁は長さ約3kmで、周壁の外側に幅52メートルの護城河(堀)がめぐらされてている。東西南北に各一門があり、南が正門の午門、北が神武門、東が東華門、西が西華門である。
殿宇の配置は大きく外朝と内廷の二つに分かれる。外朝は、太和・中和・保和の三大殿が中心をなし、その両翼に文華・武英両殿を配し、皇帝が儀式を行い、群臣を召見するなど公的な場所であった。
内廷は乾清宮・交泰殿・坤寧宮と東六宮、西六宮などからなり、皇帝が日常の政務を処理し、后妃と皇子が生活し、祭祀を行うところであった。
故宮の建物には気迫がみなぎり、豪壮華麗で、中国の古建築の粋を集める。勿論、博物館としても一級で収蔵品は百万点に及ぶとされる。北京随一の見所といってもよいだろう。1987年、ユネスコの世界文化遺産に登録。
午門(ごもん)
故宮の正門。子午の方向にあることから午門と呼ばれている。明の永楽18年(1420)の創建で、高さ8メートル。
三つの通路が通じており、かつて中央の大門は皇帝専用でふだんは閉まっていた。右側の門は皇族と公爵専用、左側の門は文武の官僚用であった。
台上には俗称を五鳳楼という五つの楼が建ち、中楼の左右に鐘亭と鼓亭があり、皇帝が太和殿で式典を催すときには鐘と太鼓を一斉に鳴り響かせ、威厳を示した。
午門の前は広場になっているが、明の時代には役人が「廷杖」と呼ばれる杖で打たれる刑罰が行われた場所でもあった。
太和殿(たいわでん)
俗に金鑾殿といい、故宮の中心部にある。故宮の「三大殿」のなかでも最も重要な建物。
皇帝の即位や誕生、春節(旧暦の元旦)や冬至などの祭日、出兵征討など、明・清両代の皇帝の重要な儀式はすべてここ太和殿で行われた。
明の永楽18年(1420)に完成し、初めは奉天殿といったが、嘉靖41年(1562)に皇極殿と改称し、清の順治2年(1645)に現在名になる。
三層の漢白玉石の基台の上に建つ。基台には三列の石段がついているが、中央のそれは巨大な一枚石に海浪と流雲と蟠竜を彫った「御路」であり、皇帝専用の通路であった。
それぞれの基台の上には、雲竜と雲鳳を彫った漢白玉石の柱が立ち並び荘厳な雰囲気を醸し出している。
基台の階段をのぼると大和殿。正面には巨大な紅色の円柱が十二本並ぶ。建物は高さ29メートル、幅約63メートル、建坪2377平方メートル。建物の内部には、楠の大木柱が立ち並び、巨大な屋根を支える。その柱に囲まれるように、薄暗がりのなか皇帝権の象徴である玉座が置かれている。
黄色瓦に紅色の壁。故宮で最も壮観な建物である。中国における現存する最大の木造建築でもある。
中和殿(ちゅうわでん)
太和殿の北側にあり、故宮の「三大殿」のひとつ。
明の永楽18年(1420)に完成し、初めは華蓋(かがい)殿といったが、嘉靖年間に中極殿と改称し、清の順治2年(1645)に現在名になった。
縦横24.15メートルの正方形で、屋根の中央に金メッキの宝珠がある。皇帝が太和殿に赴くときはまずここ中和殿で小憩し、内閣・礼部や侍衛・執事の朝礼を受けた。天壇、地壇や社稷壇での祭礼の際、祝詞や儀式の農具の閲見を行う場所でもあった。
保和殿(ほわでん)
中和殿の北側にあり、故宮の「三大殿」のひとつ。
明の永楽18年(1420)に完成し、初めは謹身殿といったが、明の嘉靖年間に建極殿、清の順治年間に現在名に改め、乾隆年間に改修。
清代には大晦日と旧暦正月15日の夜に皇帝がここで宴会を催した。乾隆54年(1789)から清朝末期には科挙の催行試験である殿試の会場ともなった。
また、保和殿の背後(北側)には「竜彫石」と呼ばれる龍を彫刻した巨大な一枚岩がある。
乾清宮(けんせいきゅう)
故宮の内廷のいちばん前面(南側)にある。
明の永楽18年(1420)に完成し、清の嘉慶3年(1798)に改築。
清の康熙帝以前は皇帝が住み、政務を処理したところ。清の雍正帝以後は、皇帝の居室は養心殿に移され、ここは内廷の典礼を行い皇族に宴を賜う時などに使われた。
交泰殿(こうたいでん)
故宮の内庭、乾清宮と坤寧宮との間にある。
毎年、元旦・冬至・千秋(皇后の誕生日)の三大節に皇后はここで賀を受けた。
坤寧宮(こんねいきゅう)
故宮の内廷のいちばん後ろ(北端)にある。
明の永楽18年(1420)に落成し、清の順治12年(1655)に改築。
明代には皇后の居室として使われ、皇帝の大婚はここで3日間儀式が行われた。清代には満州族の神をまつる祭神の場に改められた。
景山(けいざん)
故宮の北門・神武門の向い側にある。南を見下ろすと、故宮の楼閣の黄色い瑠璃瓦の屋根が波のように連なっている。
北京は左右対称に造られた街であるが、景山は、その中枢線上にある。
明の永楽14年(1416)、故宮の造営のさい元代の旧城の撤去と紫禁城の護城河の開削で生じた残土を堆積し、万歳山と命名し、清の順治12年(1655)に景
山と改称。
南門・正門内に孔子(前552〜前499)の位牌を祭る綺望楼、北麓に清代に皇帝と后の棺を埋葬するまえに安置した永思殿と観徳殿がある。
標高約45mの山上にある万春亭からは北京市内の素晴らしい眺望が望める。
東麓には、崇禎17年(1644)3月19日、李自成(農民蜂起の指導者。1606〜45?)が農民軍を率いて北京に攻め入ったさいに、紫禁城を逃げ出した崇禎帝が首を吊って自殺した槐の木が残っている。
北海公園(ほっかい)
故宮と景山の西北方にある。歴史が古く、規模が広大な歴代帝王の宮苑で、800年余りの歴史を有する。現存するとしては宮苑としては最古のものである。山水に恵まれ、立地びよさから、十世紀に遼朝の支配者が庭園を造営し、行楽の場としたのが始まりである。明・清両代にも宮廷の庭園として利用し、乾隆年間に瓊華(けいか)島の四面に亭や楼台を設けただけでなく、北岸に蚕壇(さんだん)、東岸に濠濮澗(ごうぼくかん)・画舫斎(がほうさい)なども設け、今日の北海の全容がほぼ整った。
北海前門を入って永安橋を渡ると、そこは周囲880メートル、北海公園の中心となる瓊華島である。山頂に北海公園でいちばん目立つ高さ35.9メートルのラマ教式の白塔がある。背景にある景山や故宮の景色とあいまって、その景観は壮大華麗な絵のように美しい。
瓊華島北東部の対岸には乾隆年間につくられた濠濮澗がある。庭園芸術の粋を尽くすと言われ、北海の造園術において重要な地位を占める。
北海の北岸には静心斎がある。四周に背の低い塀をめぐらし、南面は透しの化粧塀で、内外の風景が一つに溶けあい、点景の妙を発揮する。内部は太湖を模した築山で、明るく透き通るような感じで、青竹・樹木・草花のなかに見え隠れする亭・軒・アーチ橋とあいまって、幽雅な雰囲気を醸し、「乾隆小花園」とか「園中の園」とかいわれる。
また、静心斎の西には九竜壁がある。乾隆年間(1736〜95)建造で、幅25.86m・高さ6.65m・厚さ1.42mの両面に九頭の蟠龍が五彩の琉璃磚で描かれている。九竜壁はここ以外に大同と故宮にもあるが、ここのものが最も美しいと言われている。
北海公園の敷地は70万u、かつての皇帝の禁苑もいまは北京市民の重要な行楽・景勝の地のひとつとなっている。
中南海(ちゅうなんかい)
故宮の西隣にある。三海(北海・中海・南海)のひとつ。
中海は金・元代に開削され、清代に多くの優雅な建物が造られ、国政の処理や避暑の場所とされた。
1949年の新中国成立後、毛沢東(1893〜1976)・周恩来(1896〜1976)・劉少奇(1905〜69)・朱徳(1886〜1976)をはじめ、国と中国共産党の指導者の居住地となっている。
西什庫教堂(せいじゅうこきょうどう)
北京最大のカトリックの聖堂。もともと府右街蚕池口にあったが、清の光緒16年(1890)に西太后が西苑(中南海)を拡張するさい、カトリック聖堂の鐘楼から中海をのぞかれるのを恐れ、フランス公使と交渉し現在の場所に移転させたもの。
東四清真寺(トンスーせいしんじ)
法明寺ともいい、東城区東四南大街にある。
元の至正6年(1356)の創建で、明の正統12年(1447)に後軍都督同知のイスラム教徒陳友が再建。
華麗な配置で、礼拝用の大殿をはじめ、南北の講堂や水房・図書館などからなり、敷地は1万u余り。明代建築の特徴がきわだつとともに、アラビア建築の様式も具わる。大殿の内部は金色燦然と輝き、梁や棟に極彩色の装飾や彫刻を施し、3つのアーチ形の出入口に『コーラン』の経文を色あざやかに彫る。大殿の後ろの窯殿はヴォールト式の無梁殿。境内は樹木が生い茂り、静寂かつ壮厳な雰囲気が漂う。多数の文化財や書籍を擁し、明の万暦7年(1579)の清真法明百字聖号碑がある。聖号碑の正面にはモハメッドの業績が漢語で、裏面にはアラビア語で陽刻されている。
南堂(なんどう)
北京で最古の天主教堂。宣武区宣武門内大街東路の北側にある。
明代に北京を訪れたイエズス会士マテオ=リッチ(利瑪竇・1552〜1610)がここに小さな堂を建て布教を始め、清の順治7年(1650)にイエズス会士のドイツ人宣教師アダム=シャール(湯若望・1591〜1666)がその跡地に再建した。
聖堂をはじめ、天文台・儀器室・蔵書楼などもあったが、地震や火災で倒壊・焼失したという。現在のものは光緒30年(1904)の再建。屋根の正面に精緻な磚彫、柱の頭部に木刻の浮彫りと金メッキによる装飾を施し、ステンドグラスの窓とあいまっていっそう華麗に見える。堂内には大きな油絵が飾られ、祭壇に聖母マリア像が立つ。
琉璃廠(ルリチャン)
宣武区和平門外にある。元・明両代に琉璃窯廠(琉璃製品を焼く工場)が設けられていたので琉璃廠という。
元・明代は住む人がなく荒涼としていたと言われるが、清代初期に骨董商が営業を始め、乾隆年間にはすでに骨董・書画・古画・碑帖や文房四宝(筆・紙・硯・墨)が全国から集まり、文人たちを強く引きつける場所であった。
かつては何紹基(1799〜1873)・陸潤庠(1841〜1915)・康有為(1858〜1927)・翁同?(1830〜1904)・梁啓超(1873〜1929)・沈伊黙(1882〜1964)など多数の書家や名士が書店や骨董品店の看板や扁額の筆をとった。
今も、北京一番の文化街としての賑わいは変わらない。80年代に清朝時代の町並みを復元した。そこに、筆、墨、硯、紙などの書道具や掛け軸で有名な栄宝斎をはじめ、文奎堂・邃雅斎・宝古斎・慶雲堂など、書画骨董・文物の複製などの専門店が軒を並べている。
天壇(てんたん)
崇文区の正陽門外、永定門内大街の東側にある。皇帝が、文字通り天に五穀豊穣を祈る場所であった。
明の永楽18年(1420)の築造で、初めは天地壇といったが、嘉靖9年(1530)に四郊分祀の制度が定められ、「月壇」「日壇」「地壇」が建設されたため、天壇と改称し、清の乾隆・光緒両年に改修を行った。
全体の構成は、天円地方(天は丸く、地は四角い)という思想に基づき、北側を丸く、南側を四角く造ってある。
天壇というのは圜丘壇と祈穀壇の総称である。南に圜丘壇、北に祈穀壇が置かれるが、ともに中軸線上にあって、両者は丹陛橋と呼ばれる道で結ばれている。丹陛橋は北に高く、皇帝は南の圜丘壇から祈穀壇へ坂を上る形で丹陛橋を進んだがそれは昇天を象徴した。
圜丘壇には圜丘壇・皇穹宇などが、また祈穀壇には祈年殿・皇乾殿・祈年門などがある。
敷地は約270万uと広大で、現存する中国最大の祭祀建造物である。
圜丘壇(かんきゅうだん)
天壇の南部にある。皇帝が冬至の日に天を祭ったところで、祭天台・拝天台・祭台ともいう。石造りの三層の壇で、もともと建物はない。
明の嘉靖9年(1530)の築造時には壇面と欄干はともに琉璃瓦で造られていたが、清の乾隆14年(1749)に拡張したさい、欄干と腰羽目板は漢白玉石、頂部は艾葉青石に改められた。
円形で三層をなし、各層の手すり・腰羽目板・階段の数はいずれも陽数(天数ともいい、9とその倍数)になっている。頂部の敷石は中心のものが円形であるほかはいずれも扇形で、その数も陽数である。
最上壇の中心点で話すと、本人にはその声が反響して聞こえる。もちろん、皇帝が天への報告をする際の効果を考えての仕掛けである。天と対話をしているような錯覚を呼び起こしたであろうか。
二重にめぐらした背の低い周壁は、内側が円形、外側が方形である。
皇穹宇(こうきゅうう)
圜丘壇(かんきゅうだん)の北側にある。圜丘壇で祭る神の位牌を安置したところ。
正殿は天を象徴する円形をなし,明の嘉靖9年(1530)の築造時には泰神殿といったが,同17年(1538)11月に現在名に改称。明代は重檜円形宝彩造りであったが,清の乾隆17年(1752)に金銅製の宝珠・藍色瓦葺きの円形宝形造りに改築。
周囲にめぐらした円形の周壁は、内側の壁面が滑らかで音がよく伝わるので、俗に回音壁という。現在は柵が設けられていて自分で試すことは出来なくなっている。
祈年殿(きねんでん)
天壇の北半部にある。天壇を代表する建築。皇帝が毎年豊作を祈った場所である。
三層の青の瑠璃瓦は屋根は見事である。青い空をバックにした青の色も美しい。屋根の丸さも美しい。最上層の円錐形も美しい。「天への祈り」を最大限に表現できた建築といえよう。
明の永楽18年(1420)の築造で初めは天地壇といい、壇上に大祀殿という円殿が建っていた。嘉靖24年(1545)に金鋼製の宝珠に,上眉が藍色琉璃瓦,中層が黄色琉璃瓦,下層が緑色琉璃瓦葺きの三重櫓宝形造りに改築して大享殿と改称。,清の乾隆年間に現在名に改称し、翌年に中層と下層も藍色琉璃瓦葺きに改めた。
高さ38メートル、直径30メートル。内部には中央に四季を表す四本の柱、その外側にそれぞれ十二か月と十二時辰を表わす柱が十二本ずつ同心円をなして建つ。屋根を支えているのはこの二十八本の柱だけで、ほかには梁も釘も使われていない。
斎宮(さいぐう)
天壇の西天門の南側,祈年殿の西南にある。祭祀のさい、皇帝が斎戒・宿泊した。周囲に二重の御溝をめぐらし、外溝の内側に回廊をめぐらす。正殿のほか、後方に寝殿、東北の隅に鐘楼がある。鐘楼には永楽年間銘の太和鐘がある。
神楽署(しんがくしょ)
天壇の西天門外南側にある。祭祀・奏楽の担当官を養成したところ。明の永楽18年(1420)に建てられ、初めは神楽観といったが、清の乾隆8年(1743)に神楽所、同19年(1754)に現在名に改称。
祈りの儀式において、奏楽のはたす役割は重要であったことは史書からも知られる。
陶然亭公園(とうぜんていこうえん)
宣武区の西南隅にある。園内に陶然亭がある。遼代の京都の郊外にあたり、元代になって寺廟が建てられ、明・清両代に窯廠(薄・瓦・陶器などを焼く工場)が開設された。
は清の康煕34年(1695)に工部郎中(工部:昔時、官営工場などを司った省の名、郎中:役職。諸司の長)の江藻が建てたもので、初めは江亭といった。山門の軒下にかかる扁額の「陶然」という金字は江藻の遺墨で、,白居易(772-846)の「更に菊黄にして家酪の熟するを待って、君と共に一たび酔うて一たび陶然たらん」の詩句による。
近代の革命の歴史のなかでは、陶然亭は五四運動(1919年)のさい李大剣(1889〜1927)・毛沢東・周恩来らが革命活動を行ったところとして知られ、1978年に革命記念地に指定されている。
1950年代に東西両湖を開削し、その周囲に築山を設け、橋や小径を整え、木や草花を植えて公園とした。
現在は、牡丹とバラの公園としても北京の市民に親しまれている。
怠悲庵(じひあん)
旧称を慈悲院といい,陶然亭公園にある。元代の創建で,清代に何度か改修。遼の寿昌5年(1099)の慈智大徳師仏頂尊勝犬悲陀羅尼瞳と金の天会9年(1131)の観音甘露破地獄浄法界真言瞳が現存。
法源寺(ほうげんじ)
宣武区法源寺後街にある。北京の現存最古の名刹。
唐の貞観年間(645)に創建の勅令が発せられ、武周の万歳通天元年(696)に落成し、欄忠寺と命名。高句麗への遠征を行ったときに戦没した将士を祭るために建てたという。
安史の乱(安禄山・史思明らの反乱。755〜763)のさい順天寺と改称、明の正統2年(1437)に寺僧の相璃が改修して崇福寺と改称。清の薙正12年(1734)に現在名に改称。山門・鐘楼・鼓楼・天王殿・大雄宝殿・欄忠台・大遍覚堂・蔵経楼と東西の吹きはなちの廊下などからなる。欄忠台に当寺に関係のある歴代の石刻や経瞳などを収蔵しているが、そのうち唐代の「無垢浄光宝塔頌」と遼代の「燕京大欄忠寺菩薩地宮舎利函記」はきわめて貴重なもの。「無垢浄光宝塔頌」は史思明が唐に投降したおりに奉納したもので、縦書きの文章であるが普通の中国語とは逆に左から右へ読むように書かれている。
また、北宋の欽宗が金に捉えられ中都に送られたとき拘留されのがこの寺であったり、金の時代の女真族の科挙の会場になったり、元の至元26年(1289)に宋の遺臣謝紡得(1226〜89)が拘留されて断食したり、さまざまな歴史に彩られた古刹である。
天寧寺(てんねいじ)
宣武区広安門外にある。北魏の孝文帝拓蚊宏の創建で、初めは光林寺といったが、隋の仁寿2年(602)に宏業寺、唐の開元年間に天王寺、金代に大万安寺と改称し、元代末期に戦火にあって焼失。明代初期に再建され、宣徳年問(一説に正統年間)に天寧寺と改称した。
現存の堂宇は清代に改築したものだが、見所は、伽藍の裏にある八角十三層の塔。遼代の建立で、高さ57.8m。重厚荘重にして雄大華麗。均整のとれた美しい塔である。塔内に仏舎利があると伝えられる。
白雲観(はくうんかん)
宣武区広安門外浜河路にある道教寺院。現存する道教寺院のなかでは最大のもの。
唐の開元27年(739)の創建で、初めは天長観といったが、金の泰和3年(1203)に太極宮、元の時代に長春真人(1148〜1227)を招いて長春宮と改称、明の洪武27年(1394)に白雲観と改称。
現在の建物は清代に再建したもの。華麗壮大でいくつかの四合院からなる。中軸線上に牌楼・山門・霊宮殿・玉皇殿・老律堂(七真殿)・邸祖殿・四御殿・戒台・雲集山房などが並ぶ。四御殿は二階建てで、階上を三清閣といい、道教の貴重な文献である正統年間刊の『道蔵』を蔵す。中心をなす邸祖殿に長春真人の泥塑像を安置し、地下に遺骨を埋める。清代に改築したさい、仏教寺院の配置に改めたものの、細部の装飾・絵画にはいぜん霊芝・仙鶴・八卦・八仙など道教式の図案が使われている。
いまだに庶民の信仰を集め、春節の際などには多くの市民が参拝に訪れる。また、中国道教協会の事務所が置かれている。
歴代帝王廟(れきだいていおうびょう)
西城区の阜成門内にある。明・清両代に歴代の帝王を祭ったところで、俗称を帝王廟という。保安寺の跡地で、明の明の嘉靖帝が9年(1530)に三皇五帝から夏・殷・周三代の帝王、以下歴代創業の皇帝を祭るために建立した。碑亭内に建つ雍正帝と乾隆帝の直筆の碑は石文資料として貴重なもの。
門前にかつては精美な彫刻を施した牌楼があったが、いまはない。
広済寺(こうさいじ)
西城区阜成門内大街の東端にある。明の天順元年(1457)に再建し、弘慈広済寺と改称。成化2年(1466)、万暦12年(1584)、清の康煕33年(1694)に増築を重ね、北京における有数の大寺院となった。火災に三回みまわれ、1934年1月に正殿と後殿はほとんど焼失し、明代の経典や海外から寄進された白檀造りの釈迦立像などを焼失。翌年再建され、1952年と1972年に大改修を行った。
伽藍は2.3haを占め、中軸線上に南から北へ山門・天王殿・大雄宝殿・観音殿(円通殿)・蔵経閣(舎利閣)などが並んでいる。
中国仏教協会の全国本部が置かれている。
妙応寺白塔(みょうおうじはくとう)
西城区阜成門内大街の北側にある。元の世祖フビライの命で元の至元八年(1271)の建立。元朝に仕えていたネパール人工芸家のアニグが設計と建立に参加した。塔身が白いので俗に白塔という。
元王朝はラマ教に帰依していたが、当時の皇室のラマ教の活動の中心地となり仏典の翻訳作業などが行われた。
至元16年(1279)に塔の前に大規模な寺院を創建し、大聖寿万安寺と命名したが、元末落雷により堂宇を焼失したが、塔は災を免れた。明の天順元年(1457)に妙応寺と改称。
白塔はラマ塔で、高さは51m。現存最大の元代のラマ塔で、1978年の改修のさい、塔頂から乾隆年間の貴重な仏教文化財を発見,堂内で展示されている。
魯迅故居と博物館(ろじんこきょとはくぶつかん)
西城区阜成門内西三条胡同21号にある。魯迅(1881〜1936)が1924年5月から1926年8月までの二年間を過ごした小さな四合院。南房が客間で、北房の東側背後にある老虎尾巴(虎の尻尾)という小さな部屋が、魯迅が緑林書屋と呼んで書斎兼寝室にしていたところ。前庭に魯迅手植えのリラの木、裏庭に井戸、その傍らに木瓜の木がある。新中国成立後、改修を行い、魯迅が住んでいたころのまま公開している。
旧居の東側にある魯迅博物館は、1956年10月19日の魯迅逝去20周年に開館し、1980年の生誕100周年を記念して拡張された。魯迅研究に不可欠の多数の文献と魯迅が所蔵していた1万3000冊余りの書籍を展示。
北京動物園(ペキンどうぶつえん)
西城区西直門外大街、北京展覧館の西隣にある。明代は皇室の別荘、清代は皇族の園林であった。
光緒32年(1906)に西太后は自分の楽しみのためドイツから動物を買い入れ、東側1.5haを整備し、2年後に万牲園と命名し正式に公開。新中国成立後、全面的に整備・拡充されて西郊公園となり、1955年に北京動物園と改称。
飼育舎の延建坪は5万u余りにのぼり、ジャイアントパンダや孫悟空のモデルと言われる金絲猿、四不像(シカ科の動物でひづめは牛、頭は馬、体はロバ、角は鹿に似ている)など中国の貴重な動物をはじめ、世界各地の代表的な動物をあわせて490種5000頭ちかくを擁し、中国最古にして最大の動物園。
紫竹院公園(しちくいん)
海淀区の白石橋の近くにある。元代に水利学者の郭守敬(1231〜1316)が北京の用水問題を解決するため、玉泉山の水を引いて湖を造った。明代に北岸に万寿寺の下院の紫竹院を建て、その西側に清代に行宮を造り、皇帝や西太后が頤和園に赴くさいの休憩所とした。
いまは建物はなにもなく、紫竹院という名だけが残る。新中国成立時には一面の荒野であったが、全面的に整備され、紫竹院公園となる。敷地は14ヘクタールで、そのうち水面が11ヘクタール、二つの湖と三つの島からなる。造園技術者の入念なデザインにより、人工美と自然美がみごとに混在している。静かな竹やぶに取り囲まれ、文字どおりの紫竹院である。多種の竹の栽培でも知られる。
五塔寺(ごとうじ)
海淀区の北京動物園の北側にある。明の永楽年間の創建で、清の乾隆26年(1761)に改修し大正覚寺と改称。寺の後ろに明の成化9年(1473)建立の金剛宝座塔(高い基壇に五つの塔が立つ塔)があるので、俗に五塔寺という。堂宇は20世紀始めにすべて破壊され、残っているのは金剛宝座塔のみ。
インドから来た高僧が、インド東部のブッダガヤ(仏教随一の聖地)の大塔を模して造った。十三層の屋根をもつ高さ八メートルの大塔を、四つの十一層高さ七メートルの小塔が囲むように造られている。
塔身と宝座に仏像、サンスクリット文字、仏教独特の装飾文様が彫られている。インドのパコダ様式の外観をしているが、構造と彫刻は中国の伝統をふまえた様式で、両者の融合が独特の雰囲気を醸し出している。
境内の奥は、「北京石刻芸術博物館」となっており、さまざまな石碑を集めた碑林や石像が陳列されている。
雍和宮(ようわきゅう)
東城区雍和宮大街の東側にある。北京最大のチベット寺院。清の康煕33年(1694)の創建で、清の雍正帝の即位前の邸宅であった。即位後の雍正3年(1725)に雍和宮と改称するとともに、永佑殿・法輪殿など主要な殿宇を黄瓦に葺き換えた。のちに乾隆9年(1744)に乾隆帝の命でラマ廟となった。当時、チベット仏教を通じてのモンゴルやチベットの融和が政治上のテーマであったこともある。
五つの中庭群に分かれ、影壁・牌坊・山門・天王殿・正殿・永佑殿・法輪殿・万福閣などが有名。なかでも法輪殿は雍和宮最大で典型的なラマ教寺院建築様式。本尊はラマ教黄帽子派の祖師・ツォンカパの像で高さ6.1メートル。
また、万福閣は弥勒仏を納めるために建てられた建物だが、三層の巨大な構造を持つ。殿内に安置する弥勒菩薩立像は高さ26m(地上部は18m)で、バランスがよく、雄壮な体躯。第7世ダライ=ラマが乾隆帝に贈った白檀香木で作られたという。
地壇公園(ちだんこうえん)
東城区安定門外路の東側にある。地壇とは、明・清両代に皇地祗神を祭ったところで、毎年、夏至の日の出に祭礼を行った。壇は北向きで、天円地方の説に基づき、地をかたどった漢白玉石造りの2段方形の台である。
明の嘉靖9年(1530)の創建で、清代にしばしば改修。方沢壇ともいう。
1925年に京兆公園として一般公開、1929年に市民公園と改称、現在は地壇公園という。毎年春節には北京で最大級の廟会が開かれ、多くの人が詰めかける。
鼓楼(ころう)
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鐘楼から見る鼓楼と下町の家並み
右に見えるのは北海公園の白塔
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東城区地安門外大街にある。景山公園から中枢線にそってまっすぐ北に延びる道が地安門大通り。その突き当たりにあるのが鼓楼。その後ろにあるのが鐘楼。
鼓楼は明の永楽18年(1420)の建造で、清の嘉慶5年(1800)に改修。明・清両代に時報の太鼓を打ち鳴らしたところ。
城台の上に楼閣がそびえ、総高45mの楼上からは東西南北の眺望がすばらしい。
楼上に現存する太鼓の刀痕は義和団事変のさいに八カ国連合軍によってつけられたもの。現在、観光用に太鼓を打ち鳴らす儀式を復活させている。
鐘楼(しょうろう)
東城区地安門外大街、鼓楼の北にある。元代の万寧寺の中心をなした建物の跡地。明の永楽18年(1420)の創建で、のちに焼失し、清の乾隆10年(1745)に再建。磚・石造りの高大な城台に建つ。楼内にかつては永楽年間鋳造の大鉄鐘があったが、のちに同じ永楽年間鋳造の肉厚27cmの銅鐘に換えられた。
徳勝門箭楼(とくしょうもんせんろう)
西城区の北部にある。明の正統4年(1439)の建造で、乾隆年間に再建。
北京の内城の九門のうち現存唯一の初期箭楼である。徳勝門は城楼と箭楼とそれらをつなぐ甕楼からなっていたが、現在は箭楼と甕楼の土塀の一部しか残っていない。
明の時代、モンゴルへの出陣はこの門より行ったとされる。また、逆に、明末の李自成の農民反乱軍が攻め入ったのもこの門からとされる。
元大都西土城址(げんだいとどじょうし)
北京市街の北3キロ、海淀・朝陽両区にまたがる。
元の大都城の北面の城壁(西面の城壁の北端を含む)の遺跡。高さは最高のところで6メートル、底部の幅約15メートルで、長さ12キロ。
元の大都の基本は世祖フビライが定めたもので、全体的にその後の明朝に比べる北寄りに街が造られていた。この遺跡も、明・清の時代の北面の城壁に比べると2〜3キロ北になる。ちなみに、南面の城壁は現在の東・西長安街の南側に位置し、東西両面の城壁は明・清両代の北京の内城と重なる。
いずれにせよ、北京を首都とした最初の全国統一王朝は元である。その元の都の北面の城壁と西面の城壁の北端が残っているのがこの元大都西土城址である。七百年ほどの歴史を有することになる。
覚生寺(大鐘寺)(かくしょうじ)
海淀区、北二環路の北側にある。明の永楽年間の大鐘があるので、俗に大鐘寺ともいう。
創建は清の雍正11年(1733)。南から北へ山門・天王殿・正殿・後殿・蔵経楼・大鐘殿・配殿などが並び、伽藍は広大である。かつては皇帝が雨乞いをし、信徒が仏事に従ったり参詣に訪れたりした。
大鐘は明の永楽帝期(1403〜1424)に鋳造されたもので「永楽大鐘」といい、高さ6.94メートル、口厚22センチ、口径3.3メートル、重さ46.5トン。外面に諸仏如来菩薩尊者名号集経・弥陀経・十二因縁咒、内面に妙法蓮華経、口に金剛般若経、竜頭に楞厳経など、あわせて22万7000字余りの経文を鋳込む。鋳込みは精緻で、当時の中国の鋳金技術の高さを示す。鐘の音は絶妙で、残響が2分以上も続き、鐘の音は15〜20キロまで達する。
この大鐘以外にも境内にはさまざまな時代の鐘が収集されており、その数六百という。
長城―八達嶺(ちょうじょう―はったつれい)
延慶県にある。長城の要衝のひとつ。
長城の全長は6700kmで、「月から見える地上唯一の建造物」と言われる。はるか春秋・戦国時代から諸侯の国がたがいに防御するために城壁を築いたのが起源で、中国を統一した秦がその城壁を基礎に万里も連なる長城を築き、今日の長城の規模が定まった。
その後も代々、改修して利用され、明代にいたって、北方ではいぜんとしてモンゴル族の進攻、東北でも女真族の勃輿がみられたので、従来の城壁の版築の部分を磚・石造りに改め、西は嘉峪関(甘粛省)から東は山海関(河北省)まで1万余里(2400km)を整備し、城壁沿いに多数の烽火台を設けた。
八達嶺付近の長城は地形を利用し、高さ7.5m、厚さ約4mで、上部は騎馬が五列、兵士が十列で進むことができる幅をもつ。防御上の必要から、尾根の高所、城壁の曲り角、重要な地点に堡塁式の城台を設けた。階上と階下に分かれ、階上には四面に鋸壁をめぐらし、階下は軍隊の駐屯や武器の保管ができるように空洞とした。
八達嶺では、入り口を入ると左右どちらにでも登れる。左右それぞれ「男坂」「女坂」と呼び習わされ、坂の角度に違いがある。右の「女坂」の方が一般的かと思われるが、こちらも四つ目の城楼までくれば、山を縫って長城が延々と連なる様が見える。この辺りの長城の修復は年々進んでおり、その気になれば、三時間でも四時間でも歩いて行くことが出来る。
居庸関(きょようかん)
北京市街から50キロ余り、昌平県にある。古来、北京を守る重要にして最後の関門である。ジンギスカンが北京を攻め入ったのも居庸関を越えてである。
居庸関の南の入り口である関城は雲台と呼ばれ、台の中央にアーチ型の通路が通じており、通路内外の壁に金翅鳥、四天王の彫刻がある。また、サンスクリット・チベット・ウイグル・パスパ・漢・西夏の6種類の文字で陀羅尼経と造塔功徳記が刻まれている。
明十三陵(みんじゅうさんりょう)
北京市街から西北へ約40キロ、天寿山麓の円形の小盆地にある。
長陵(成祖・永楽帝)・献陵(仁宗)・景陵(宣宗)・裕陵(英宗)・茂陵(憲宗)・泰陵(孝宗)・康陵(武宗)・永陵(世宗・嘉靖帝)・昭陵(穆宗)・定陵(神宗・万暦帝)・慶陵(光宗)・徳陵(熹宗)・思陵(毅宗・崇禎帝)という明朝十三人の皇帝の陵墓があり、明十三陵と総称する。
敷地の大小と造りの精粗に違があるものの、建物の配置と様式は基本的には同じで、前方後円形をなす。地上の建造物の雄大なことで長陵、地下宮殿が発掘されたことで定陵が有名である。
明十三陵を訪れるには、まず石牌坊(せきはいぼう)を通る。石牌坊は嘉靖19年(1540)年の建立で、漢白玉石造りで幅28.86m、高さ14m。麒麟・獅子・竜・怪獣などの彫刻が素晴らしく、中国石彫の傑作の一つである。
さらに進むと、神道の両側に石人・石獣が並ぶ。石人が十二(武人・文人・功臣がそれぞれ四つ)と石獣が二十四(獅子・象・麒麟・馬など)で構成されており、いずれも大きな石を彫り上げたもの。
陵墓自体が発掘されているのは、定陵だけである。明朝第十四代万暦帝と二人の皇后(孝端・孝靖)の合葬墓。発掘は1956年に開始され、一年余りをかけ地下27メートルに地下宮殿入り口の金剛壁が発見された。内部はすべて石造りのアーチ構造で、前・中・後・左・右の5つの玄室からなる。中でも後殿は最も重要な部分で三人の棺が安置されていた。棺の周囲には2000点に上る副葬品を納めていた朱塗りの木箱が置かれており、その中でも皇帝の金冠と皇后の鳳冠は豪華である。
頤和園(いわえん)
北京市の市街から約15キロ、海淀区にある。
中国の名園のひとつに数えられる。歴代の皇帝の行宮・庭園であった。造園は十二世紀なかば。金代に始まるが、離宮として整ったのは、清の乾隆帝以後のことである。
1860年に英仏連合軍によって破壊されたが、光緒14年(1888)に西太后が海軍の経費を流用して改修して現在名に改め、避暑地とした。総面積は290ヘクタールで、そのうち4分の3は昆明湖の水面である。
頤和園は、西太后や光緒帝など清代末期の支配者のゆかりの地で、近代史との関係が深く、当時の重大な歴史的事件の痕跡を多数留める。辛亥革命後、1914年に一般公開され、1924年に正式に公園となった。
仁寿殿(にんじゅでん)
東宮門内にあり、西太后と光緒帝が政務を処理したり、外国の使節との会見に使われた。
楽寿堂(らくじゅどう)
西太后の居室であった。四合院形式の建築である。
徳和園(とくわえん)
芝居好きのは西太后は徳和園のなかに大戯楼を造らせ、頤和園に来るたびに観劇を楽しんだという。
万寿山(ばんじゅさん)
標高58.59m。乾隆15年に乾隆帝が母親の60歳の誕生日を祝って命名した。中腹には、西太后の誕生日を祝う祝典を行った拝雲殿、頤和園の全建築物の中心である仏香閣があり、ここからの昆明湖を俯瞰する景観はすばらしい。
昆明湖
頤和園の総面積の四分の三を占めるが、また、周囲に様々な趣向を凝らした建築物をもつ。長さ36mの石製の船・清晏舫(せいあんぼう)や長さ728mの梁のに彩色画が施された長廊、欄干の獅子と怪獣の石彫が素晴らしい十七孔橋など、中国園林技術の粋といっても過言ではない。
円明園(えんめいえん)
海淀区の東部にある。清朝の離宮の跡。「万園の園」と讃えられる豪華きわまる庭園であったが、第二次アヘン戦争で英仏連合軍の徹底的な破壊を受け廃墟となった。
約350ヘクタール、周囲10キロの広大な庭園であった。康煕48年(1709)に康煕帝の第4子胤禎(のちの雍正帝)に下賜され、その後改修と拡張を重ね、付設の長春園・綺春園(のちに万春園と改称)とともに円明三園と総称されるようになった。
建物や庭園は、中国の伝統的な技術を集めるとともに、西洋建築の特色も 取り入れている。円明園の正門を入ると、皇帝が政務を処理する正大光明殿があり、そのそばには江南の名
園の名勝を再現した福海がある。また、四庫全書を収めた文源閣をはじめ、俗に西洋楼というヨーロッパ風の宮殿と庭園も長春園の北部に造営された。
建物や景観だけでなく、書物や書画、文物や宝石を収蔵し、文化・芸術の宝庫であった。清王朝が150年の歳月をかけ営々と築いてきたものであったが、咸豊10年(1860)に英仏連合軍(第2次アヘン戦争)により、一瞬のうちに廃墟と化した。現存するのは長春園の西洋楼の残骸のみ。
盧溝橋(ろこうきょう)
蘆溝橋とも書き、北京の市街西南約15キロ、豊台区の永定河に架かる。北京の現存最古の連続アーチ石橋。永定河はもと盧溝河といったので、盧溝橋と命名された。
盧溝橋は南方と北京を繋ぐ重要な橋であった。この橋を渡らずして北京には入れなかった。同時に、月の名所としても名高い。金代以来北京の美しい風景を八つ選び、「燕京八景」と呼び慣わすが、そのひとつに「盧溝暁月」(盧溝橋から眺める暁の月)というのがある。
架設は金の大定29年(1189)で、全長266.5メートル、幅7.5メートル、11スパン。両側の石造りの欄干にはそれぞれ140本の親柱があり、その柱頭に臥伏した石獅を大小あわせて485個が彫られている。その姿態は一個一個みな異なる。
イタリアの旅行家マルコ・ポーロ(1254〜1324)は、その旅行記・『東方見聞録)で「まったく世界中どこを探しても匹敵するものはないほどのみごとさ」とたたえている。
日中戦争の発端となった、わゆる盧溝橋事件(七七事変ともいう)の現場でもある。1937年7月7日のこと。事件勃発50周年を記念して1987年に橋の修復が行われ、併せて近くに「中国人民抗日戦争記念館」が建てられた。
周口店北京原人遺跡(しゅうこうてんぺきんげんじんいせき)
房山県周口店村にある。50万年前に北京原人が住んでいたところとして知られる。竜骨山といわれる石灰岩の小山を中心に、東西1.5キロ、南北3キロの範囲で遺跡群が分布する。
スウェーデンの考古学者アンダーソンが、1921と23年の調査で古人類の歯2本を発見したのが始まりで、1929年には中国の古人類学者裴文中が北京原人の完全な頭蓋骨を発見し、シナントロプス・ペキネンシスの名で世界に知られるようになった。
ここで発見された北京原人の人骨は、完全な頭蓋骨6個のほか、歯・大腿骨など全部で約40個体分に相当すると言われる。また、人骨のほかに、石器類や骨角器などが多数見つかっている。
調査より、火を使っていたこと、家族で生活をしていたことなどが知られている。
香山(こうざん)
海淀区の東南部、北京の市街から北西へ20キロ余りにある。紅葉の名所として知られる。
峻嶺が折り重なり、花と木が山に満ち、清幽な雰囲気であるので、金代以後、歴代の皇帝が離宮や別院を造り、行幸の場とした。また、皇帝の狩猟の場としても利用された。
清の乾隆10年(1745)に大規模な造営を行い、二十八景と称される景勝の地であった。秋になればハゼの木が紅葉し、全山がまっ赤に染まる。
現在は、香山公園として北京市民がハイキングなどで訪れる場所である。公園内には「香山飯店」という四つ星のホテルもある。
碧雲寺(へきうんじ)
海淀区の香山の東麓にある。創建は元。東向きで、山門から最上部まで六層の院落からなり、各院落がそれぞれ堂々たる堂宇を有し、山腹に折り重なり、緑が鬱蒼と生い茂る。
南院に羅漢堂があり、漆金木像の羅漢五百体をはじめ、神像七体と梁上済公の像を安置。
羅漢堂の北側の普明覚妙殿は1925年に孫中山(孫文)の棺を一時安置したところで、のちに孫中山紀念堂になった。
その後方がインド・ブッダガヤの塔を模した金剛宝座塔院で、漢白玉石造りの塔がそびえる。高さは34.7mで、塔座に登る石段か付いている。塔座は中央に孫中山の衣冠を埋めたアーチ形の洞があり、小型のラマ塔が二本、方形十三層の密檐搭が五本建つ。いずれも大小さまざまな釈迦・天王・力士・竜鳳獅象・雲文などの精緻な浮かし彫りが施されている。
十方普覚寺(臥仏寺)(じっぽうふかくじ)
海淀区の西山北部、寿安山の南麓にある。臥仏像があるので俗称を臥仏寺という。創建は唐代。
臥仏殿に元の至治元年(1321)の銅鋳の臥仏像を安置。元代に寺を修復した際に造られた。
長さ5メートル余りで、右手で頭を支え、左構はまっすぐ伸ばし、背後を十二体の泥塑像が取り囲み、釈迦牟尼が娑羅の木の下で後事を弟子に託して入寂する光景を示す。純朴精緻な造りで、元代の高度な鋳造技術と彫塑を体現している。
雲居寺(うんごじ)
房山県の南部、尚楽水頭村にある。北京市街から75キロ。大量の石経が発掘されたことで知られる。
石経とは、石刻経とも呼ばれ、岩の壁面・磨崖・石板などに経文を刻みつけたものを言う。それが造られた理由のひとつに仏教弾圧から教典を守る、という意味があったが、ここで発見された石経はまさにそれである。
雲居寺は、隋代に幽州の智泉寺の僧静?の創建によるが、その静?は師の慧思の遣志を継ぎ、石経の彫造を発起し、隋の大業年間から唐の貞観13年(639)に死ぬまで、30年間にわたって彫り続けた。その石経は伽藍の東北方の石経山にある蔵経洞に収蔵される。静?の死後も代々彫り続けられ、明代末まで、千年以上にわたり刻み続けられてきた。
刻んだ石版は、石経山の九つの蔵経洞に納めらた。合わせて石経板4195枚。また、雲居寺の境内からは、遼・金時代の石経板1万82枚が発掘されている。
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