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中国出典の故事成句あれこれ 〜四字熟語編〜

 四というと、日本では忌み嫌われる数字です。『し』が「死」と同音だからのようです。そんな中でも四字熟語は、冠婚葬祭のあいさつ・座右の銘・訓辞・説教など結構珍重されています。そんな四字熟語を順次紹介していきます。
 第 1 回 【乾坤一擲】(けんこんいってき)  第 2 回 【四面楚歌】(しめんそか)
 第 3 回 【狡兎良狗】(こうとりょうく)  第 4 回 【佳人薄命】(かじんはくめい)
 第 5 回 【塞翁之馬】(さいおうのうま)  第 6 回 【守株待兎】(しゅしゅたいと)
 第 7 回 【杞人憂天】(きひとてんをうれう)  第 8 回 【天衣無縫】(てんいむほう)
 第 9 回 【秋高馬肥】(しゅうこうばひ)  第 10 回 【馬耳東風】(ばじとうふう)
 第 11 回 【天地玄黄】(てんちげんこう)  第 12 回 【殷鑑不遠】(いんかんふえん)
 第 13 回 【漱石枕流】(そうせきちんりゅう)  第 14 回 【伯夷叔斉】(はくいしゅくせい)
 第 15 回 【悪木盗泉】(あくぼくとうせん)  第 16 回 【跖狗吠堯】(せきくはいぎょう)
 第 17 回 【君子豹変】(くんしひょうへん)  第 18 回 【屠龍之技】(とりょうのぎ)
 第 19 回 【蜀犬吠日】(しょくけんはいじつ)  第 20 回 【胡蝶之夢】(こちょうのうめ)
 第 21 回 【百聞一見】(ひゃくぶんいっけん)  第 22 回 【悪事千里】(あくじせんり)
 第 23 回 【黄絹幼婦】(こうけんようふ)  第 24 回 【無用之用】(むようのよう)
 第 25 回 【朝三暮四】(ちょうさんぼし)  第 26 回 【曲突徙薪】(きょとつししん)

● 第 1 回 【乾坤一擲】


人生に一度あるか無いかの『乾坤一擲』(けんこんいってき)

 「この間の天皇賞では"かんこんいっそん"の大勝負に出たよ」「なんだいそりゃあ。ああ、"けんこんいってき"のことだろう」「そうとも言う」「そうとしか言わないよ。で、いくら賭けたんだ」「大枚1万円」「そんなぐらいで乾坤一擲の大勝負なんて言うなよ。せいぜい"清水の舞台から飛び降りたつもり"ぐらいにしておけよ」

 乾坤一擲の意味は、もともとは天下の覇権を賭けて大勝負をするということです。「真成に一擲 乾坤を賭す」という、中国・唐代の文学者、韓愈(768-824)の「鴻江を過ぐ」の一節から出ています。四字熟語では「一擲乾坤」というのもあり、こちらのほうが原典に近いわけですが、意味は同じです。 「鴻江を過ぐ」は紀元800年ごろ、この地を旅行した韓愈が1200年前に起きた劉邦と項羽の天下分け目の戦いを偲んで作った詩です。劉邦は、漢帝国を創業した高祖帝で、項羽は項籍ともいい、秦帝国を滅ぼした反乱軍の盟主でした。

 紀元前207年に秦の都・咸陽を占領して実質的に秦を滅ぼした劉邦は、反乱軍の盟主だった項羽軍が咸陽に迫ると、その功績を譲って臣従します。項羽は自ら西楚の覇王を名乗り、劉邦を漢王(任地は蜀。現在の四川省など)に封じるなど、諸王を任命します。しかし、張良など優秀な部下をもった劉邦は206年(以下、紀元前は省略します)、すぐに他の諸国を侵略し始めます。ここから漢楚の本格的な戦いが始まりますが、ほとんどの戦いは項羽の連戦連勝となり、劉邦は逃げ回ります。時には、馬車に同乗している自分の子どもを、敵に追いつかれそうになるたびに、何度も放り出す(その都度、部下が救っている)という危機に陥ってさえいます。最後には父親と妻(後の呂后)を楚軍に生け捕りにされてしまいます。

 連戦連敗の劉邦でしたが、漢軍は負けるたびに優勢になっていきます。羽が自分の実力を誇り、部下に十分な恩賞を与えて来なかったためで、楚軍の優秀な将軍たちが、次々と漢側に寝返っていきます。それでも、項羽は戦いには負けないのです。項羽は身長が2m近くあり、項羽が先陣を切って進むと、漢軍は総崩れとなってしまうからですが、項羽一人がいかに強くとも、結局、漢軍の息の根を止めることはできなかったことが、項羽の破局につながっていくのです。

 そして、漢軍はますます膨れ上がっていき、ついに楚軍は勝ちくたびれてしまいます。音を上げた項羽は、劉邦に和睦を求め、人質にしていた父親と妻を返します。そして、鴻江を境界に天下を二分することを提案します。父親らを返してもらった劉邦も、異を唱える理由もなく、条件を受け入れて満足げに領地に帰ろうとしますが、張良たち側近の臣下たちが承知しません。今すぐ軍を返して、楚軍を追撃すべきだというのです。項羽の恐ろしさが身に染みている劉邦は、立ち向かう気が全くないのです。なお、帰ろうとする劉邦の馬を臣下たちが、無理やり逆向きにさせて、追い立て始めます。事ここに至って、劉邦も一大決心、まさに乾坤一擲という心境で、追撃を命令します。

  ところが、この戦いでも漢軍は楚軍に敗れて、劉邦は敗走を余儀なくされてしまいます。というのも、漢側の韓信や彭越ら北方に転戦していた有力な将軍たちの来援が得られなかったためです。彼らが北方から攻めれば、楚軍を挟み撃ちにできるわけですが、戦いを見守るだけで、彼らは軍を動かそうとはしなかったのです。窮地に陥った劉邦は、張良の献策を入れて、韓信らに領地を与えることを約して、諸王に任じます。その効果があって諸軍が来援し、楚軍を垓下に追い詰め、囲んでしまいます。そして、203年11月、故国楚への脱出を図った項羽は、追い詰められ自刃し、これによって漢帝国の始まりとなります。

 というように、乾坤一擲という四字熟語は、実に重みのある言葉で、冒頭のように、競馬の賭け事ぐらいに使われては、かわいそうな気がします。


● 第 2 回 【四面楚歌】


謀略放送のはしり、四面楚歌(しめんそか)

 『四面楚歌』を簡単に言えば、周囲がすべて敵あるいは反対である状態をいいます。例えば、「会議で再建案を発表したら、全員から猛反発を食らって、四面楚歌の状態だったよ」という具合に使われるのでしょう。
 原典は司馬遷の『史記』の中の「項羽本紀」です。前回の『乾坤一擲』に続く話になりますが、紀元前202年、劉邦の漢軍に攻め込まれた項羽の楚軍は、垓下(安徽省霊璧県)に塁壁を巡らして立てこもります。その周囲を漢軍が幾重にも取り囲んでしまいます。夜半、取り囲んだ漢軍の陣中から、楚の国の歌が聞こえてきます。これが四面楚歌です。

 楚は長江を中心とした、当時の中華のほぼ南半分の地域を占めていました。秦が全国統一を進めるなかで、最大の強敵は楚でした。そして、楚を滅すことによって、秦の全国統一が成就したわけですから、楚人にとって秦は仇敵でした。そのことからも楚人の項羽に対する期待も大きく、項羽が旗揚げすると、多くの楚の若者が従っていました。その楚の国の歌が、漢軍の中から聞こえてきたということは、項羽が最後に頼るべき楚も劉邦の手に落ちたことを示しているということになります。

 しかし、漢軍が垓下を取り囲んでいる時には、楚はまだ、漢の支配下に入ってはいなかったのです。それなら、なぜ楚の歌が漢軍の中から聞こえてきたのでしょうか。劉邦の軍の中には、優秀な将軍や軍師たちが数多くはせ参じていました。その中の一人(軍師の張良と言われています)が、知恵を授けたのでしょう。漢軍の中の楚人(戦の中で、楚軍から寝返った者や捕虜になった者も何十人かはいたはずです)をかき集め、兵士たちに楚歌を教えさせ、夜半に一斉に歌わせたと考えることができるでしょう。
 これは明らかに謀略放送のはしりということができそうです。謀略放送と言えば、第二次世界大戦では、相手の兵士の士気をくじくために、日本も米国も盛んにやっていました。近代戦争では、謀略放送は戦争手段の一つになっていました。

 史記によれば、楚歌を聞いた項羽は「漢は既にわが楚を全部手に入れたのか。なんと楚人の多いことか」と言ったということになっています。しかし、それだからといって、項羽は降伏しようとはしませんでした。また、楚軍の兵士のほとんどは、漢軍から聞こえてくる歌が、楚の国の歌であることを分からなかったはずです。なぜなら、楚軍といっても、楚王の項羽が率いていたから楚軍というだけで、3年以上にわった戦乱の結果、楚軍の中には、楚人がほんのわずかな数しか残っていなかったはずです。従って、楚歌は項羽一人に向けられた謀略放送であったということができるでしょう。もし、楚軍の兵士たちが、囲んでいる兵士のほとんどが楚の国の兵たちだと誤解したら、自分たちの将来は全く絶望的だと思い至ったはずです。当然、反乱を起こしたか、なだれをうって投降したはずです。

 その夜の未明、項羽は800人余の兵士とともに、包囲網を破って楚を目指します。漢軍は5000人の騎馬兵を差し向けて、後を追いかけさせます。項羽は戦い続けながら、ようやく長江の沿岸にたどり着いたとき、彼に従う兵士は、わずかに二十数騎だけとなっていました。幸いなことに長江には楚人の関守が、船を用意して待ちかまえていました。近くに船は一艘もないので、項羽たちが乗り込めば、彼らは逃げ延びることが可能でした。しかも、これによって楚は、まだ漢の手中に入っていないことも証明されたのです。

ところが、ここで項羽は、乗船を拒否してしまいます。項羽が楚から挙兵するとき、8000人の楚の若者を引き連れていきました。しかし、今は項羽に従う楚出身の若者は一人もいないのです。それでは楚の父兄に会わせる顔がないと項羽は考えたのです。
 そして、再び漢軍に立ち向かい、最後には自刃します。享年31でした。夜半に聞いた楚歌という謀略放送が、今まさに逃げ延びられるという光明が見えたときに、初めて効き目を発揮したのです。ちなみに、楚歌はもの悲しい曲調が特徴であったということです。
 蛇足になりますが、項羽の愛人・虞美人が作詩したという、「漢兵已略地 四方楚歌聲 大王意氣盡 賤妾何聊生」という無題の詩があります。ここに『四方楚歌』という語句がでてきます。しかし、これは後世の人が虞美人の名を使って作ったものということです。

● 第 3 回 【狡兎良狗】


狡兎良狗(こうとりょうく)

 字義どおりに解釈すると、「狡(ずる)賢い兎(うさぎ)に良い狗(いぬ)」となって、何のことやら分かりかねますね。出典の史記には、漢の高祖(劉邦)をして国士無双と言わしめた韓信が、謀反の罪を着せられたときの言葉として、「狡兎死して良狗烹(に)られ、高鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国敗れて謀臣滅ぶ」と述べたとあります。狡兎良狗は、獲物のウサギを猟犬が狩り尽くしてしまうと、猟師は最後に猟犬を煮て食ってしまう、つまり、かつて役立っていたものも、不要になれば無残にも捨て去られるという意味です。同類の四字熟語はかなり多くて、狡兎走狗(こうとそうく)、兎死狗烹(としくほう)、得兎忘蹄(とくとぼうてい)、得魚忘筌(とくぎょぼうせん)、鳥尽弓蔵(ちょうじんきゅうぞう)など、たくさんあります。

 漢の高祖(劉邦)には、宰相の蕭何(しょうか)、参謀長の張良、大将軍の韓信という三功臣(三傑)がいました。楚の項羽との戦いでは、常に連戦連敗を重ねていた劉邦が、最終的に勝利を収められたのも、韓信によるところが大きく、軍功第一と言ってよいほどです。また、彭越(ほうえつ)、英布(黥布)、盧綰(ろわん)は、韓信とともに前漢の四王と併称された大将軍たちがいますが、いずれも、漢の創業に功労のあった者たちです。

 しかし、劉邦が天下を治めると、四王のうち、韓信、彭越、英布の三人は、次々と誅殺されてしまいますし、盧綰は謀反を疑われ、劉邦の死後、匈奴の支配地に逃れざるをえなくなり、望郷の念を抱きながら、その地で没しています。いずれも悲運のうちに、世を去ることになるのですが、悲劇は四王だけではなかったのです。臧荼、陳キ<豕+希>、韓王信などの諸将も高祖に背き、やがて滅亡していきます。その上、彼らの反乱鎮圧に功績のあった樊(はん)カイ<口+會>は、讒言を受けて高祖(劉邦)から逮捕を命じられ、誅殺されそうになりましたが、高祖の死去により、かろうじて免れることができたのです。

 なぜ、このように漢創業に功績のあった将軍たちが次々と成敗されていったのでしょうか。徹底した中央集権制だった秦帝国に対する反乱から生まれた漢政権だけに、当初は旧来の封建制を採用して功臣たちを諸王に封じたため、中央政権と地方政権との関係が不安定であったこと、高祖の皇后・呂后が権力奪取をめざして、諸王の排除に積極的な役割を果たしたことなど、さまざまな理由が挙げられます。直接的には、呂后の存在が大きく、樊カイが誅殺を免れたのも、彼の夫人が呂后の妹だったため、呂一族とみなされたことが幸いしたのです。

 成敗された諸将軍たちにも問題がなかったわけでもありません。韓信を例に挙げれば、韓信は当初、項羽の軍に属していましたが、認められなかったため、劉邦の軍に属するようになりました。韓信の才能を最初に見抜いたのは蕭何で、劉邦に重用することを進言しました。劉邦の軍でも韓信は下士官クラスの階級に過ぎなかったのですが、劉邦は蕭何の進言を受け入れ、大将軍に抜擢しました。

 韓信が全国的に有名になったのは、項羽側の趙軍と戦ったとき、川を瀬にした背水の陣をしくことによって、圧倒的に優勢だった趙軍を破ったときからです。ただし、この後、韓信は慢心してしまいます。項羽との戦いで苦境にあった劉邦の弱みにつけ込むように、自ら斉王になることを望んで認めさせてしまうのです。このころから、劉邦には韓信に対する疑念が生じます。さらに、「乾坤一擲」の項で紹介したように、項羽との最後の決戦となった戦いに際して、初め韓信は彭越とともに出兵せず傍観していました。そのため、劉邦は項羽に負けて逃げるのですが、途中で韓信らに封土を増やすことを約束して参戦させ、韓信に総指揮を執らせて、項羽を垓下に包囲することに成功するのです。

 韓信は若いころ、無頼の者に股くぐりを強要されますが、それを耐え忍んで漢の大将軍にまで登り詰めたのに、ちょっとした欲が身を滅ぼすきっかけをつくってしまったと言うことができます。


● 第 4 回 【佳人薄命】


薄命だったから美人?「佳人薄命」(かじんはくめい)

 日本では一般的には「美人薄命」と表現されていますが、古代中国では「美丈夫」な男子のことを美人と言っていたようです。後世になって、美女を指すようになりました。一方、佳人は、美女を意味するだけでなく、理性や知性、品格も備わっているような女性のことで、中国ではこちらのほうを使っています。

 歴史上の女性で、最初に佳人薄命とされたのが、春秋時代末期(紀元前5世紀)の「西施」でした。彼女は越王勾践から呉王夫差に献上されたことにより、夫差が彼女を溺愛したため呉の国が滅亡し、彼女も自殺するという悲運の伝説があります。

 この西施は、王昭君、貂蝉(ちょうぜん)、楊貴妃とともに、中国四大美女といわれています。この四人とも、一般的には佳人薄命の証明とされています。四大美女には別説があって、貂蝉の代わりに、虞美人を入れる場合があります。この五人を使って、その佳人薄命度を見てみましょう。

 王昭君は、前漢の10代皇帝・元帝の後宮から匈奴の王に降嫁した女性です。降嫁したと書きましたが、これは匈奴の王に対して失礼な言い方です。当時の中国では、3000人もいた皇帝の後宮の一人であることのほうが幸せで、匈奴の王の正室になることは悲運だと考えていたようです。

 貂蝉は後漢末期に、当時権勢を奮っていた董卓(とうたく)を、その養子である呂布と仲違いさせるために、漢の皇帝の謀臣・王允(おういん)が送り込んだ女性で、彼女の手練手管により呂布は董卓を暗殺してしまうのです。これが三国志の発端となるわけです。

 楊貴妃は唐代の玄宗皇帝の愛妃です。唐代きっての名君とされた玄宗皇帝は、皇太子の妃の一人だった楊貴妃を奪い取ってから、政務を楊貴妃の親族に任せきりとなり、ついに安禄山の反乱(755年)を招くことになりました。都長安を追われて逃亡する途中で、家臣たちに迫られた玄宗皇帝は泣く泣く、楊貴妃とその一族を誅殺せざるをえませんでした。

 虞美人は「四面楚歌」のところで紹介したように、楚の項羽の愛妃だったとされています。項羽が漢の劉邦によって垓下で取り囲まれ、絶体絶命の状況に至って、足手まといになることを恐れて自害をしました。

 これら5人の佳人薄命の度合いを見てみると、西施、貂蝉、楊貴妃の三人は、意図的であるかないかは別として、相手の王や皇帝、権力者を滅亡させ、その結果、自らも悲劇に見舞われています。これでは美女ではあっても、とても佳人とは言えず、傾国傾城、妖婦と言わざるを得ません。佳人とは「窈窕(ようちょう)たる淑女」でなければなりません。

 王昭君は後宮3000人の中で最高の美人だったのに、匈奴の王のもとに嫁がされたことが、かわいそうというのが中国の一般大衆の考え方のようですが、彼女は漢と匈奴との和平の橋渡しとして嫁いだのです。そして、彼女の生存していた数十年間は和平が保たれたとされていますから、彼女自身、誇りを持って生き抜いたはずでしょうし、匈奴では王妃として敬意をもって遇されていたはずです。まさしく、佳人ですが、薄命ではなかったのです。

 虞美人の自害は、自ら招いた悲運ではありません。項羽の唯我独尊的な性格が、劉邦との最後の戦いに敗れる結果となりました。しかも、絶体絶命の中で、最後まで戦い抜こうとする項羽の性格を見抜いていた彼女は、自分のために十分な戦いができないことを恐れて自害したのですから、まさしく彼女は佳人でした。そして薄命でもありました。佳人薄命は五人の中では、虞美人一人に冠するのが最もふさわしいと言えるでしょう。

 彼女の血を吸った大地から翌年、赤い美しい花が咲きました。土地の民は、その花に虞美人草と名づけました。まことに佳人薄命の彼女にふさわしい伝説だったと言えるでしょう。

(注)西施、貂蝉の二人は正史に出てきません。また、虞美人も「史記」にはたった一ヵ所出ているだけです。今回は、多くを伝承に基づいています。


● 第 5 回 【塞翁之馬】


結局は強運だった「塞翁之馬(さいおうのうま)」

 「塞翁之馬」を字句どおりに解釈すると、辺境の砦(とりで)近くに住んでいる古老の所有する馬、というぐらいの意味になるのでしょうが、それだけでは何のことかさっぱり分かりませんね。しかし、この四字熟語の故実は、日本でも一般的によく知られている話ですから、ここに改めて書くのも気恥ずかしい気さえします。ただ、知らない人もいないとは限りませんから、簡単に書いておきます。

 昔むかし、辺境の古老が飼っていた馬が国境を越えて逃げてしまったので、近在の者たちが慰めに来たのに、この古老は「いや、これは必ずしも禍(わざわい)とは言えない」と平然としていました。しばらくしてから、逃げた馬がたくましい馬を連れて帰ってきました。今度は近在の者たちがお祝いに駆けつけると、古老は「いや、これは必ずしも福(さいわい)なことではない」と少しも喜ぶ気配を見せません。 果たせるかな、古老の息子が連れられてきた馬に乗ったところ、落馬して足を骨折してしまいました。近在の者たちが再び慰労にやってきましたが、古老は「いや、これが福なことになるとも限らない」として、少しも気落ちした様子がありません。その年の秋、北方から騎馬民族が侵入してきました。それを防ぐため、近在の多くの成年たちが動員され、激しい戦闘の末、騎馬民族の侵入を防いだものの、ほとんどの者が戦死したり、深い傷を負ったりしてしまいました。しかし、古老の息子は、足が不自由だったために、動員を免れたのです。

 故実と言うより、寓話と言ったほうが正確かもしれません。出典は前漢の淮南(わいなん)王劉安(紀元前179−122年)が学者を集めて編纂させた哲学書「淮南子(えなんじ)」です。同じ淮南を地名では「わいなん」と読み、書物の題名では「えなん」と読まなければならないのですが、これは日本だけの読み方のようで、日本の昔の学者というのは、随分と面倒なことを考え出すものです。

 淮南王劉安は漢帝国を創業した高祖劉邦の孫で、劉長の子です。漢王朝にとって、天下を掌握した後の最大の問題は、匈奴対策でした。というのも、高祖劉邦自身、匈奴を討伐しようとして逆に取り囲まれしまうという屈辱的な敗北を喫してしまうのです。このときは、匈奴の王(単于<ぜんう>)の王妃に贈り物をしたりして攻撃の手加減を頼んだり、深い霧に紛れて逃げ出すなど、屈辱的な敗北を喫しているのです。韓王信など重臣の中には、匈奴に寝返って匈奴軍の先鋒を務める者さえも出る始末で、第7代の武帝の時代になって、匈奴を周辺から駆逐するまで、常に匈奴に対して漢は劣勢でした。

 従って、この塞翁の話は、匈奴という漢王朝にとって最大の対外問題が色濃く反映されていて、興味深いものがあります。特に、塞翁の馬が連れ帰ったという、たくましい馬というのは、匈奴の馬に違いないでしょう。

 寓話の教訓として、禍は福の先触れ、福は禍の先触れ、つまり、不運なことがあってもくよくよせず、努力をしていれば福に転じることができるし、その一方で、幸運なときに調子に乗っていると、禍が忍び寄ってくるから注意しろということでしょう。

 同じ意味の四字熟語としては、禍福糾縄(かふくきゅうじょう)、禍福相倚(かふくあいよる)など結構数多くありますが、やはり「塞翁之馬」が最も有名です。「塞翁失馬」という同類もあります。故事を知っている者には、単に二字熟語の「塞翁」だけでも意味が通じてしまいますが。

 しかし、塞翁の話の禍福を計りに掛けてみると、結局、禍は小で福は大だということが分かります。馬が一頭増えただけでなく、息子を戦死させずに済んだことがそうです。筆者には運のいい者は、少しぐらいの禍があっても、結局は大きな幸運を得てしまうものだと、この四字熟語からは読みとってしまうのですが、これは僻(ひが)みかもしれません。

● 第 6 回 【守株待兎】


愚か者とばかりは言えない「守株待兎(しゅしゅたいと)」

 守株待兎は「株(くいぜ)を守りて兎(うさぎ)を待つ」とも読みます。出典は戦国時代末期に韓非(紀元前280ごろ―233年)が著した「韓非子」です。この四字熟語をもとに、北原白秋が童謡を作詞していますが、それをそのまま、紹介しましょう。

待ちぼうけまちぼうけ/ある日せっせと野良稼ぎ/そこへうさぎが飛んで出て/コロリ転げた木の根っこ

待ちぼうけまちぼうけ/しめたこれから寝て待つか/待てば獲物が駆けてくる/うさぎぶつかれ木の根っこ

待ちぼうけ待ちぼうけ/今日は今日はで待ちぼうけ/明日は明日はで森の外/うさぎ待ち待ち木の根っこ

待ちぼうけ待ちぼうけ/元は涼しいキビばたけ/今は荒れ野のホウキ草/寒い北風木の根っこ

 つまり、努力もしないで利益を得ようとする愚かな農夫を戒める意味を込めたものということになりますが、実は韓非はそういう意味で、この話を紹介したのではないのです。

 株にぶつかった兎とは、儒教を指していたのです。孔子は堯や舜の聖君時代を理想として、儒教を説いているわけですが、それは過去の時代の話であって、それが今の時代、つまり当時の中国で言えば、戦国時代には全く当てはまらないのだ、それは一度、切り株にぶち当たった兎を捕らえた農夫が、耕作をほったらかしにして、再び兎が切り株にぶつかるのを待っているように全く無駄だけでなく、害悪なのだ、ということなのです。つまり、儒教を徹底的に批判するために使われた寓話だったのです。

 韓非は生悪説を説いた荀子の弟子で、韓の公子(王子)でした。韓非は荀子の説をさらに徹底させ、統治には厳格な法律が必要だという法家思想を説いたのです。当時、秦の優勢が顕著になっていた時代で、始皇帝となる政が秦の王位に即くと、戦国時代をかろうじて生き残った諸国が連合しても、秦には到底太刀打ちできないほどの秦優勢が確立していました。韓も風前のともし火の状態で、韓非は父王に韓王国建て直しのための建策として韓非子を著したのですが、韓非が身分の低い母親から生まれたこともあって、父王はもちろん、韓の要人からも全く見向きもされなかったのです。

 ところが、あろうことか、敵方である秦王・政が韓非子を見て、日ごろ、自分の考えていることが書かれていることに驚愕して、「この人物と会って話ができたら死んでもよい」とさえ言わしめたのです。韓非が韓の公子であることを知った政王は、韓に戦争をしかけ、和睦使節として秦に来た韓非を厚遇します。しかし、結局は韓非が韓の公子であることを理由に、秦王は韓非を捕らえて殺してしまいます。韓非は、自分の著作が原因で死ぬことになったのです。策士溺策(さくしさくにおぼれる)も四字熟語ですね。

 政は全国を統一すると、法家の思想を採用し、峻厳な法治体制を敷くとともに、儒教を徹底的に弾圧をしていきます。儒者を生きて穴埋めにし、儒教の著作を焼き尽くすという坑儒焚書(こうじゅふんしょ)さえも断行します。

 ところで、守株の農夫は、だめなやつ、愚か者として周囲から嘲笑されました。しかし、彼と同じようなことをしていたのが、例の太公望呂尚です。呂尚は将来を期して、読書に励みましたが、うだつがあがらないために嫌気をさした妻に離別されてしまいます。後に、
渭浜(いひん)で釣りをしているところに、周の文王が通りかかり、彼こそは自分が永年待ちの望んでいた人物(太公望)だと見いだして、周軍の軍師に抜擢しました。文王の子・武王の時代になって、殷を滅ぼすのに大きな功績を残したことでよく知られています。

 元妻が出世した呂尚に復縁を迫ったところ、覆水不返(ふくすいはかえらず)と言って断ったことでも知られています。呂尚は釣りをしていただけですから、文王が渭浜を通りかからなかったなら、周の宰相にはなれなかっただけで、文字通りだけの「渭浜漁夫」で終わったはずです。人間万事幸運も必要ということではないでしょうか。

● 第 7 回 【杞人憂天】


笑ってはいられない「杞人憂天(きひとてんをうれう)」

 四字熟語「杞人憂天」より、二字熟語の「杞憂」の方が人口に膾炙(かいしゃ)されていますね。古代中国に杞という国があって、この国の人が天が崩れ落ちてつぶされてしまうのではないかと心配して、夜も寝られず、飯ものどを通らなかったという列子の話から出ています。杞人之憂(きひとのうれい)とも言いますが、いずれも取り越し苦労、無益な心配という意味です。

 列子によれば、まだ続きがあって、心配症の人を一生懸命諭した人がいたそうです。その人いわく、「天は空気が積もっただけだから、この地上に空気のないところはない。体を伸ばしたり曲げたりしているのも空気の中だから、天が崩れ落ちるなんてことはない。そんな心配なんてしなくてもよい」と、まあ現代でも通じそうな説明をしています。

 ところが心配症の人は反問します。「それならなんで、星や日月は落ちてこないんだ」と。それに対する回答は「星や日月も積もり積もった空気の中で輝いているだけだから、万一落ちてきても当たって負傷することなんてないんだ」

 まあ、現代で言えば、非科学的というか、いい加減な回答をしています。日月はともかく、隕石は世界的に見れば、結構落ちているのに。それでも心配症は納得しません。「空気が積もった天は崩れないとしても、どうして大地は崩れないんだ」と再反問します。「それは大地は土くれが積もっただけなので、それが四方に満ち満ちているから土くれのないところなどはないんだよ。みんないつも大地の上で、跳んだり跳ねたりしているじゃないか。何の心配があるものか」と、答えます。それで、心配症の人の胸のつかえがおりたというのです。

 列子は、この話の最後に「天地が崩れるとか崩れないとかいうことは、我々の知ることができない事柄だ。そんなことは人間が心配する必要のない問題なのだ」と結論づけています。

 ところで、杞という国は古代中国に実際に存在していた国です。現在の中国河南省には杞という名前の県が残っていますが、周王朝の創始者・武王が夏王朝を滅ぼした際、夏王朝の禹の末裔を、この地に封じて成立(紀元前1050年)した小国です。紀元前445年には楚によって滅ぼされてしまいましたが、小国なのに600年以上も存続できたのは奇跡的ですね。それだけ平和だったのでしょう。天が落ちてくるなんてことを心配して、夜もろくに寝られない人が出たということは。隣国に攻め込まれて国が滅亡するかもしれないなんていう心配があったら、天が落ちてくるという心配もおきなかったでしょう。

 天地が落ちるかもしれないという心配をした杞の国人の憂慮を、これまで世人は、杞憂という熟語で、無益な心配の代表のようにみなしてきましたが、現代に生きる私たちにとって、杞憂は本当に無益な心配なのでしょうか。確かに天は落ちてくることはないでしょうが、積もった空気は、杞国が存在した時代と比べ、かなり汚れているはずです。かの杞国の人が現代によみがえったら、きっと天は天ではなくなった。現代に天はない、空気が汚くて吸うこともできない、と嘆くかもしれません。 それだけでなく、大気の汚染は地球温暖化をもたらし、世界中に異常気象を現出させているようです。北極や南極が温暖化
し、氷雪が溶けていけば、海水面が上昇し、結局は大地を喪失させることにもなるのです。まさに、大地が崩れるという杞憂は現実化しつつあります。また、アフリカやアジアを中心とする人口の爆発的増加(日本は逆に少子化による人口減ですが)は、一人当たりの面積を減少させる結果となり、ある意味では大地の喪失といえるでしょう。

 人類の未来を考えるとき、いまこそ、あらゆる杞憂を検討する必要がありそうです。

● 第 8 回 【天衣無縫】


織女の浮気から生まれた「天衣無縫(てんいむほう)」

 唐の則天武后が実権を奪い取って皇帝に就任する以前のころでしょうか、郭翰(かくかん)という青年がいました。既に両親を亡くしていましたが、資産が残されていたのか、暮らしには困らず、かといって俗塵に汚されることもなく、清廉潔白な教養のある好青年として勉学にいそしんでいました。そんな夏のある夜半、寝台で涼んでいた郭翰の前に、天上から2人の侍女を従えた、世にも稀な美女が舞い降りてきたのです。

 驚いた郭翰は、彼女こそ仙女であろうと思い、足元にひれ伏しましたが、美女は自らを天帝の娘で、織姫であることを名乗ります。しかも、夫である牽牛(けんぎゅう)と久しく会っていないことから、気鬱(きうつ)になったため、天帝の許しを得て、郭翰のもとに来たというのです。

 そして、これも美しい侍女たちが寝台を調えて、郭翰の手をもって寝台に誘うと、美女も上衣を脱ぎ去って寝台に横たわりました。これ以後は、今で言うところのポルノの世界が展開することとなりますが、本題と関係がないので、読者の皆さんの想像にお任せしましょう。

 美女は夜明けとともに帰って行きましたが、それから毎晩のように郭翰のもとに通ってくるのです。しかし、それも1年ぐらいを経過すると、ぷっつりと郭翰のもとに訪れてこなくなってしまいました。美女が通っているころ、郭翰はあることに気がつくのです。それは美女の着ている衣服には縫い目や接合部が全くないということに。

 郭翰は寝物語に美女にそのことを尋ねると、美女は天界では布が、自然に着る者たちの体に合わせて衣服となるので、「無縫」だと答えます。そこから「天衣無縫」という四字熟語が生まれました。

 しかし、それだけなら何の変哲もない四字熟語ですが、時代が下るのにつれ、意味が変化していきます。天衣無縫が自由自在に天人の体に合わせて衣服になることから、天真爛漫(てんしんらんまん)と同じ意味で、人柄などが無邪気で素直なさまとなりました。さらに、天衣無縫は人の作為によらないことから、詩文を褒める意味として使われるようになったのです。すなわち、自然な出来栄えで技巧をこらした跡がなく、完璧(かんぺき)に美しいというように。

 ところで、天衣無縫の主人公、郭翰とはだれのことでしょうか。話自体は荒唐無稽(こうとうむけい)な御伽噺(おとぎばなし)に過ぎませんし、日本の羽衣伝説などに見られる天人降臨説話の一つですね。古今東西、この手の伝説には事欠きませんが、大抵の場合、天人の相手は、無名(たとえば猟師だとか)の、あるいは有名であっても実在しない架空の人物なのですが、郭翰も伝説の中の架空の人物なのでしょうか。 天衣無縫の出典は、『太平広記』巻68にある『霊怪集』です。この『太平広記』は、宋の李ほう(ほうは日偏に方)ら13人が勅命によって、漢から五代までの小説類を集大成したもので、981年に出版されています。太平広記の小説の中には、芥川龍之介が『杜子春』の題材にした話も収録されているなど、日本の作家たちの手になる翻案や翻訳した小説も少なくないのです。

 郭翰については、唐代の太原の人と言うだけで、そのほかについては分かりませんが、ただ、太平広記と同じ宋代の11世紀に出た『資治通鑑』(司馬光著)の「則天順聖皇后」の紀年編の中に、郭翰の名が見られる記事があります。則天順聖皇后というのは則天武后のことです。

 「左台監察御史の晋陵の郭翰」は、地方を巡察して到る所の地方官の落ち度を摘発弾劾するという厳格な役人だったようですが、摂政だった則天武后を批判して賜死を命ぜられた高官の遺書を褒めたために、則天武后によって左遷させられたという記録もあります。

 唐代には、郭翰は清廉潔白な官僚として知られていたのでしょうが、織姫の浮気相手に想定されたと知っていたら、本人はどんな感想を持ったのでしょうか。

● 第 9 回 【秋高馬肥】


詩的な言葉ではなかった秋高馬肥(しゅうこうばひ)

 日本では、気候のさわやかさと実りの豊かさという、秋の特色を表した「天高馬肥(天高く馬肥ゆ)」という四字熟語は日常的にもよく口にされていますね。中国の「秋高馬肥」も、字句どおり解釈すると、秋は天が高く感じられるように大気が澄み渡り、その心地よさに馬も食欲が盛んになって肥えるようになるという、秋の詩情を表しているかのように思われ、天高馬肥と全く同じ意味に解釈できそうです。ところが、中国での本当の意味は、麗しい季節の話などではなく、歴代王朝にとって最大の脅威であった遊牧民族の侵略を警告するものだったのです。

 漢書(中国後漢の章帝<在位75〜88年>の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書)には、将軍・趙充国<紀元前137〜52年>が、天子に「秋に至りて馬肥ゆ。変、必ず起らん」と語ったと記載されています。秋になると馬が肥えるから、遊牧民族の騎馬軍団が必ず襲ってくる、だから、厳重に注意しなければならないと進言したのです。

 趙充国は前漢第7代武帝の時代に、弍師将軍・利広に従って匈奴の討伐に功績を挙げ、さらに前漢第8代の昭帝<武帝の末子・在位紀元前87〜74年>の時、騎馬民族の一つ、てい(漢字では氏の下に一)の反乱を大将軍として鎮圧し、背後の匈奴も討伐しています。充国が遊牧民族との戦いで、かくかくたる戦果を挙げえたのも、遊牧民族の勢力地域に隣接する隴西<現在の甘粛>出身であったことから、匈奴などの遊牧民族に対する知識が豊富であったためと言えます。

 漢は、劉邦の建国時から匈奴の脅威を受けてきました。以後、武帝の時代になるまで、漢王室にとって極めて重大な外交問題でした。むしろ、匈奴の動向に戦々恐々として、休まるところを知らないといった状態だったのです。しかし、武帝が外征を積極的に推し進め、李広、衛青、霍去病ら名将を得て匈奴を討伐し、周辺の遊牧民族をほぼ完全に制圧してしまいます。しかし、武帝が亡くなると、再び漢王朝周辺の諸民族が反乱の兆しを見せるようになります。「秋至馬肥」は、そうした時代背景の中で、遊牧民族反乱を予言したものだったのです。それを受けて、初唐の詩人・杜審言(としんげん)が「秋高く塞馬(さいば)肥ゆ」という詩句を書いています。そうしたところから、「秋高馬肥」という四字熟語が生まれたようです。

 宣帝<第9代・武帝の曾孫>の時代になって、西北のチベット系遊牧民の羌(きょう)が、反乱を起こしましたが、宣帝は引退していた充国に、だれを将軍として鎮圧軍を派遣したら良いかを下問します。既に70歳を超えていた充国は、自分こそその任にふさわしいと答えます。宣帝は「それならどのような戦略
と、どの程度の兵力が必要なのか」と問います。

 このとき、充国は「百聞は一見に如(し)かず」と答えます。つまり、現地に赴いて、そこで実情を偵察した上で、方針を決めたいと述べたのです。そこには羌の反乱の背後には必ず匈奴がついていることを見抜き、現地でその事実を確かめないと、容易には軍を動かせないという充国の深謀遠慮があったのです。

 充国の働きによって、一時、西域は再び平穏を取り戻しますが、それも長続きしません。遊牧民族との戦争は、勝ったとしても消耗するだけで、遊牧民族を追い払うだけか、せいぜい、羊何万頭を奪い取ったとか、何万人の捕虜を捕らえたぐらいの話で、国庫は必ずしも豊かにはなりません。

 それでも、遊牧民族の侵攻は、中国の歴代王朝にとっては、王朝の命運にかかわる重要問題でした。杜審言の「秋高く塞馬肥ゆ」は、唐王朝も同様に遊牧民族の侵略が大きな問題であったことを表しています。

 その点、島国の日本は気楽なものです。深刻な意味だった秋高馬肥を秋と天を替えて、秋の詩情を表す四字熟語に変えてしまいました。また、さらに俗流の解釈では、馬を自分になぞらえ、食欲の秋に体重が増え過ぎることを戒める意味に変えてしまっています。所変われば品変わるの典型でしょうか。

● 第 10 回 【馬耳東風】


大詩人の嘆きだった「馬耳東風(ばじとうふう)」

 「馬耳東風」は難しい漢字が多い四字熟語にしては、小学生でも分かる漢字が並んでいますね。意味は、字句どおりに従えば、かぐわしい東風、つまり春風が馬の耳を吹きぬけても、馬は何の感動も起こさないということでしょうか。馬を人に置き換えると、何を言っても少しも反応がない、さらに人の言うことに耳を貸さない、心にとめない、というような解釈に発展していきます。つまり、現在では「馬の耳に念仏」と同義のように受け止められています。

 出典は北宋(960〜1127年)時代を代表する詩人、蘇東坡(1036〜1101年)の『何長官に和す』という詩にあります。

 青山自是絶世/無人誰与為容/説向市朝公子/何殊馬耳東風

 最後の一節「何殊馬耳東風」は「全く馬耳東風であろう」、つまり市井の若者たちには美しい景色を語ってやっても、その価値を全く認めようともしないだろうという意味で、「馬耳東風」という四字熟語を使用しています。 ただ、これには原典があります。盛唐の代表詩人の一人、李白(701〜762年)の詩『答王十二寒夜独酌有懐』に、「吟詩作賦北窓裏、萬言不直一杯水。世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳」
があります。「珠玉の詩文であっても、一杯の水にも値しない。世人はこれ(詩)を聞いても、皆頭を振るだけで、あたかも春風が馬の耳を吹き抜けるようなものだ』という意味でしょう。
蘇東坡はこれを踏まえて、「馬耳東風」を自分の詩の中に使ったのです。

 李白の詩は749年に作られたとされています。唐王朝の六代目皇帝、玄宗の治世(712〜756年)の後期に属しています。それから6年後の745年に玄宗は、息子の妃だった楊太真を貴妃(楊貴妃)にしてしまい、寵愛します。これをきっかけに、当時、歴代王朝の中でも指折りの賢帝とうたわれていた玄宗は、楊貴妃との愛欲におぼれて政治をなおざりにするようになります。
そして、10年後の755年には安禄山の乱を招き、唐王朝の土台をゆるがすことになるのです。

 まさに唐王朝が最盛期の頂点をきわめようとしつつある時期で、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)を謳歌するなかにも、近づきつつあった衰退の予兆ともいえる、漠然とした不安が感じられるような時代だったということができます。

 この盛唐といわれた時代、李白だけでなく、杜甫、韓愈(かんゆ)、白居易、柳宗元など多くの詩人、文人を輩出しています。この5人のうち、李白を除く4人は、唐王朝の中級官僚になっています。李白は極く短期間、玄宗の下で出仕しますが、下級官僚に終わっています。玄宗は、李白の詩人としての才能を高く評価していましたが、天才肌というより、俗人の常識を超えた李白の行動は、廷臣からは嫌われ、李白が望むような官職を得ることができなかったのです。

 李白の友人に、王十二という詩人がいました。彼も不遇をかこっていて、その思いを『夜独酌有懐』という詩に託して、李白に贈ります。「有如東風射馬耳」の詩は、その贈詩に対する答詩として創作されたものだったのです。この詩も、自分の詩才にかなった官職を得られそうもない李白が、その身の不遇を嘆いたものであり、その集約ともいえる「馬耳東風」という四字熟語が生まれるきっかけとなったのです。

 しかし、李白が唐代の代表的詩人として大成したのは、生涯のほとんどを流浪の身においたからということができます。永年、官職についていては、杜甫の詩聖に対する李白の詩仙と並称されるまでには至らなかったはずです。杜甫も蘇東坡も、結局は官を辞していて、詩才のある人ほど、官僚としては成功していないのです。 しかも、宮廷内は権謀術数が渦巻く世界。運良く皇帝の寵愛を受けて高位高官に就いたとしても、皇帝の気が変わったり、讒言(ざんげん)を受けて身を滅ぼすことも数多くの事例があります。詩仙でもあり、酒仙でもあった李白の人生は、まことにうらやましい人生であったと思うのですが....。


● 第 11 回 【天地玄黄】


四字熟語の宝庫、千字文の巻頭を飾る「天地玄黄(てんちげんこう)」

 「天地玄黄」は千字文の最初に出てくる四字句として有名です。この千字文は古詩形式の四字句が250句で成り立っている韻文です。千字は、すべて異なる漢字が使用されていて、重複して使用されている漢字は全くありません。近代以前の中国では、児童が文字を学ぶための初歩の教科書として、この千字文を永年用いてきました。日本には8世紀の初頭には入ってきて、日本でも習字の手本として、今でも使用されています。

 千字文の作者は、梁(502〜557年)の周興嗣(?〜521年)とするのが、定説のようです。南朝の梁を建国した武帝(蕭衍(しょうえん)。在位502〜549年)が、書聖といわれた王羲之(おうぎし。307〜365年)の書から選んだ千字を、自分の皇子たちの学習用として、周興嗣に韻文の作成を命じたのが発端だと言われています。周興嗣はたった一晩で作成し、これによって彼の頭髪が一晩で真っ白になったということですが、どちらも伝説的でちょっと信じられない話です。

 千字文の巻頭を飾る四字句「天地玄黄」は、文字通りに訳せば、「天地は黒色と黄色である」ということでしょう。天の色は黒、地の色は黄ということのようですが、どうして天の色は黒なんでしょうか。夜の天空なら、黒といっても差し支えはないのですが、昼の天空まで黒というのはどうなのでしょうか。ところが「黒くして赤色を有するもの」を玄というのだそうですから、黒を夜、赤を昼と考えると、天空の色としては、まあそんなものかとも思います。玄には悠遠という意味が含まれていますから、同時に天地の雄大さも表しているわけです。 一方、大地が黄というのは、黄河一帯、中原とか華北とか呼ばれる地域には、黄土が広がっていますから、中国から見れば、大地が黄色というのは、十分納得がいきます。そのためか、古代の中国では、黄色が皇帝を表す色とされていたように、とても尊重されていました。結局、天地は悠遠にして、崇高であることを示しているとも解釈できそうです。

 千字文は古詩形式の四字句だと書きましたが、四字句と四字熟語とはどう関係するのでしょうか。四字句は千字文だけでなく、周代から春秋時代までの詩を集めて編纂された『詩経』のほとんどが、四字句の詩形ですし、現代中国でも四字句の表現が少なくないようです。そうなると、四字句はかなり膨大な数にのぼるわけですが、それらをすべて四字熟語というべきでしょうか。日本でも創作四字熟語のコンクールのようなものまであるので、四つの漢字で構成されているものを、すべて四字熟語としてしまうのはどうかと思われます。

 四字句が四字熟語になるためには、過去において使用頻度が高く、かつ現代においても、ある程度、人口に膾炙(かいしゃ)されていなければならないと思います。これはあくまでも程度問題で、厳密な意味ではありませんが、これまで紹介してきた四字熟語は、ポピュラーというより、メジャーというほうがふさわしいような四字熟語ばかりでした。

 千字文は中国、日本、韓国、ベトナムなどでも、広く普及してきましたし、今でも、いくつかの四字句が独立した形で、引用されていますから、それらは当然、四字熟語といってよいでしょう。

 また、千字文は番号の代用としても使われていました。日本では今でもイロハが番号の代用をつとめていますが、それと同じように「天の巻」「地の巻」「玄の巻」「黄の巻」というように、中国では、近代まで使用されていました。イロハは48ぐらいしかないのですが、千字文なら1000もありますが、それだけでは足りないと、後世の人たちが2000、3000と付け加え、最後には1万字まで創作した人が出たようです。もっとも、千字文以外は全く普及しなかったようですが。

 千字文の最後の四字句は「焉哉乎也(えんさいこや)」で終わっています。この四字は、漢文を習った人なら、助辞であることが分かりますね。千字文が番号の代用として使われたということは焉が997番目、哉が998番目、乎が999番目などというように、どの文字を見ても、その対応番号が分かっていたということになりますが、本当でしょうか。

● 第 12 回 【殷鑑不遠】

結局は何の足しにもならなかった殷鑑不遠(いんかんふえん)

 周王朝の太祖・文王が殷(商)王朝の紂(ちゅう)王を諫(いさ)めるために言った言葉とされています。紂王は、中国では四大悪王である四王の一人とされていています。ほかの三王とは夏の桀(けつ)王、周の(れい)王、周の幽王です。 出典は周代に作られた『詩経・大雅・蕩之什』で、「殷鑒不遠 在夏后之世」となっています。「鑒」は「鑑」の異体字です。読み下しは「殷鑑遠からず、夏後の世に在り」ということで、殷の鑑(かがみ)とすべき手本は、すぐ前の夏の時代にあるではないか」ということになります。

 そこから、「自ら反省すべき手本は身近にある」ということになります。用例としては、「隣の奥さん、振り込めさぎにあったそうよ」「殷鑑遠からず。あなたも気をつけなさい」という具合でしょうか。

 紂王は殷王朝30代(別説では31代とも)の帝辛のことで、「紂」の字は、馬の尻(しり)にかけて、鞍(くら)を引きしめる紐(ひも)のことだそうですから、帝王の名としてはふさわしいものではありません。殷を滅ぼした周代に付けられた名前なので、悪字が使われたのでしょう。司馬遷の史記では、紂王は夏の桀王と同様の暴虐な王として描かれています。文王は紂王に桀王の真似をしないように諫めたのですが、聞き入られなかったといいます。

 紂王の暴虐振りを表した四字熟語として「酒池肉林」「炮烙之刑(ほうらくのけい)」があります。

 紂王は史記の帝王本紀によれば、知力ともに人並みはずれた能力を持った帝王だったようです。猛獣を取り押さえるという力量とともに、弁舌さわやかで臣下のだれも太刀打ちできなかったといいます。最初はきっと、名君だったのでしょう。それが妲己(だっき)という妃を得たことにより、暴君に変身します。妲己は淫蕩な妃だったようで、その好むところにより、酒池肉林の贅の限りを尽くし、諫言した忠臣を炮烙の刑にするよう紂王をそそのかします。

 酒池肉林は大きな池に酒を満たし、その周囲に家畜の肉を林のように立てた、つまり豪華な宴会を言います。肉林を誤解して大勢の裸の女性を立たせたように理解する向きもあるようですが、けっしてそういうことではないようです。

 炮烙の刑は火あぶり刑の一種ですが、多くの忠臣を火刑にして、その苦しむさまを見るのを妲己は楽しんだとも言われています。そのほか、大臣を乾し肉にしたり、文王の息子の一人である伯邑考を煮てスープにして文王に飲ませたなどという話もあります。結局、文王の後を継いだ武王が、太公望の助力を得て紀元前1027年ごろに牧野の戦いで殷軍を破り、紂王は自ら焼死することになります。

 しかし、文王もよく言ったものです。「遠からず」の「鑑」が、実際は600年も前の話になるわけですから。実は、詩経は紂王を諫めたものではなく、周王朝10代の帝王である脂、を諫めるために作られたものだったという説があります。その効なく、後に脂、は暴政に怒った民衆によって追放され、一時共和制が敷かれています。この説が正しいとすると、「夏后」という言葉も分かりやすくなりますね。夏後つまり殷代を指すことになりますから。そして「不遠」も600年前という極めて遠い過去ではなく、殷の鑑は同じ殷代にあるということで、「身近にある」という意味が分かりやすくなります。

 また、紂王の暴君説にも疑問が出されています。殷が滅んだのは、紂王の暴政のためではなく、殷が盛んに東征を進めていた隙に、殷の西方で勢力を増殖していた周が攻め入って殷を滅ぼしたという説です。

 さらに、殷の民族は、自分以外の民族、特に辺境の民族を人間とみなさず、特に羌(きょう)族の人を数多く狩り出して、生贄にしたため、羌族の首領だった太公望が復讐のため武王をして殷を攻めさせたという説さえあります。

 殷鑑不遠が殷の紂王に向けられたものなのか、周の脂、に向けられたものなのかは、即断できないとしても、どちらにしろ諫言が全く役に立たなかったということになります。諫言にしろ、忠告にしろ、多くの場合はあまり役に立つものではないというのが一般的でしょうね。


● 第 13 回 【漱石枕流】

良貨を駆逐した「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」

 「漱石枕流」は、自分の言ったことの誤りを指摘されても直そうとしない。負け惜しみをしてひどいこじつけをするような偏屈な態度という意味になります。枕流漱石とも言います。「漱石」といえば、明治時代の大文豪、夏目漱石が思い出されますね。そう、本名、夏目金之助は、この四字熟語から雅号、つまりペンネームを付けたのです。

 字句どおりに意味を解釈すると、「石に漱(すす)ぎ、流れに枕(まくら)する」ということになりますが、石では口をすすげませんし、水の流れを枕にすることもできませんね。そう、これは「漱流枕石」が正しかったのです。川の流れの水でうがいし、石を枕にして眠るという語釈になり、これなら四字熟語として理解できます。

 この四字熟語の原典は、唐代の648年に編纂された「晋書列伝第二十六巻孫楚伝」です。この原典に基づいて、746年に李瀚(りかん)が著した「蒙求」の中に『孫楚漱石』という表題で紹介したことから有名になりました。蒙求は子供に歴史上の故事来歴を学ばせるために編纂されたもので、日本では江戸時代に最も広く読まれた故事成語のテキストと言われています。

 その内容は、孫楚(字は子荊)は、卓越した文才があったものの、それを鼻にかけるところがあったために出身地の太原郡中都でも、あまり評判が良くなかった。若いころ自分の文才を誇って役人としての出世を望んだが、思い通りには果たせず、業を煮やした孫楚は、立身出世をあきらめて、隠棲(いんせい)をしようとした。親友の王済に向かって「漱石枕流のような生活をおくるのだ」と言ってしまった。王済は「そりゃあ君、漱流枕石の間違いだろう」と注意をすると、孫楚は、すかさず「漱石枕流でいいんだ。流れで枕するのは、耳を洗うためだし、石で漱ぐのは歯を磨くためだ」と強弁した―というのです。

 教養の高い孫楚が、初歩的な言い間違いをしたこと、それを正当化するために屁理屈をこねて、言い逃れをしたこと(「流石(さすが)」もここから派生しています)が、日本でも特に教養人に微苦笑をもって好意的に受け入れられたようです。江戸時代に「枕流」や「漱石」という雅号や俳号を用いた人が何人か出ていることからも、それがうかがえます。近代俳句の創始者である正岡子規も一時、「漱石」という俳号を用いたといわれていますが、夏目金之助が雅号に使って以来、「漱石」は夏目金之助一人のものとなりました。

 「漱石枕流」は、本来は「漱流枕石」が正しかったわけですが、この故事によって「漱石枕流」に取って代わられて、四字熟語としては全くかえりみられることがなくなってしまいました。隠棲生活や旅の空のわびしさを端的に著した、文学的な四字熟語だと思うのですが....。

 ただ、漱石枕流の故事で気になることがあります。孫楚が「枕流」を「耳を洗う」ことだと言ったことです。それで思い出すのが「許由巣父(きょゆうそうふ)」という四字熟語です。

これは古代の有名な二人の隠者の名前です。伝説上の聖帝・堯(ぎょう)が帝王の位を許由に譲ろうとしたところ、その話を聞いた許由は、耳が汚れたと言って、頴川(えいせん)の流れで洗い流しました。巣父は羊の群れに頴川の水を飲ませようとしたところ、許由が耳を洗ったことを聞き、そんな汚れた水を飲ませるわけにはいかないといって、ほかの川の水を飲ませたという故事によるものです。実は、巣父は許由の次の候補者だったのです。結局二人に断られた堯は舜(しゅん)に禅譲しました。

 孫楚は、この故事を示唆して「耳を洗う」と強弁したのです。いかにも才走った孫楚の面目躍如と言ったところでしょうか。しかし、孫楚は立身出世できそうもないので、名門家の王済に藁をもつかむ思いで愚痴っただけでしょう。その愚痴が間違ったために間違いを指摘されてカッとなったのかもしれません。後に出世した王済のつてで官途に就き、郡の太守になるなど中級官僚程度には出世しています。若気の至りとは言え、それほど愛すべき人物だったかどうかは疑問符を付けておきたいところです。


● 第 14 回 【伯夷叔斉】

義人なのかボケ老人なのか「伯夷叔斉(はくいしゅくせい)」

 「伯夷叔斉」は二人の老人の名前で、清廉潔白な隠者を表しています。このように四字熟語の中には、人名を並べただけのものが幾つかあります。例えば、王良造父(おうりょうぞうほ)は周代の馬術の達人たち、陶朱猗頓(とうしゅいとん)は巨万の富を築いた二人、孔丘盗跖(こうきゅうとうせき)は、孔子と大盗賊だった盗跖という相反する二人―などです。

 伯夷叔斉は殷代の孤竹国(日本で言えば、江戸時代の小藩ぐらいでしょう)の公子でした。伯夷は長男、叔斉は三男であることは、伯という字と叔という字で明らかです。孤竹国の君主である彼らの父親は、叔斉を後継ぎにしたいと考えていました。孤竹君が亡くなると、叔斉は兄たちを差し置いて、自分が君主になることはできないと拒絶します。伯夷の方も、父君の遺志を尊重して、自分が居れば叔斉が後継ぎになれないと考えて出奔してしまいます。叔斉も伯夷の後を追うようにして出奔してしまったため、やむを得ず孤竹国では二男を後継ぎに立てることになります。

 その後、二人は長い間、消息不明になりますが、突然、周の西伯(後の文王)のもとに姿を現します。すっかり老人になった二人は、西伯が身寄りのない老人を養ってくれるということを聞きつけて頼ってきたのです。ところが、二人が周国にたどり着いたときには西伯は既に亡くなっていて、発(後の武王)の時代になっていました。発は殷の紂王を討伐しようと、まさに軍を動かそうとしていたのです。

 伯夷、叔斉の二人は発の馬前に出て、「父親が亡くなってまだ葬式も出していないのに、戦争をするのは孝といえるでしょうか。周は殷の臣下なのに、臣下が主君を討つのは仁といえるでしょうか」と諌めます。発の側近たちが怒って二人を切り殺そうとしますが、宰相の太公望が「二人は義人だ。許してやれ」と押しとどめます。そして、周は殷を討ち、発は武王として即位し、周王朝が成立します。

 それを嫌った伯夷、叔斉は、仁徳を失った周の粟(ぞく)を食むことを潔しとせず、首陽山に隠れ住み、山菜を採って飢えをしのぎますが、結局、飢え死にしてしまいます。

 この話は古い伝説の一つなのですが、司馬遷は「史記」の『列伝』の冒頭を飾る話として「伯夷列伝」に取り上げています。この列伝というのは、各時代に活躍した人物の伝記を描いたものです。史記の本編は王朝の盛衰を描いた本紀、つまり政権の座にあった帝王たちの伝記にあるわけですが、史記の本当の面白さは、本紀よりも列伝のほうにあるといえます。列伝に取り上げられた人物の多くは、倒秦の兵を挙げ秦打倒の口火を切った「陳勝呉広(ちんしょうごこう)」の二人のように、志半ばにして敗れ去った者たちなのです。 そうした列伝編の冒頭に、太公望をして言わしめた「義人」である伯夷、叔斉の悲劇的な生涯を掲げたのは、「天道是非」という史記全体を通じて、司馬遷の深刻な問いかけを象徴的に表しているからだと言えます。善人が必ずしも幸福になるわけではなく、盗跖のような大盗賊が天罰も受けずに安楽に生涯を終えられるという矛盾した現実、なによりも本紀の帝王たちが本当に帝王になるにふさわしい人物ばかりであったのかどうかということさえも考えさせられることになるのです。

 ところで、中国の近代文学の創始者ともいえる魯迅も、伯夷、叔斉の話を短編小説『采薇(さいび)』で取り上げています。魯迅は伯夷、叔斉が首陽山で餓死する理由を、若い女が「あなた方の食べている薇(わらび)にしても、わが聖王陛下(周の武王を指す)のものでないといえまして」と言ったことから、薇さえも食べられなくなったためとしています。魯迅は中国の精神的・文化的な近代化をめざして、儒教や道教などの封建的な思想に厳しい目を向けていましたから、同じ題材を取り上げながら、司馬遷とは異なった視点で二人を描く結果となっています。


● 第 15 回 【悪木盗泉】

名目主義の極致?「悪木盗泉(あくぼくとうせん)」

 「悪木盗泉」は、清く正しい人は名前だけでも悪や盗のつくようなものには近づかないという意味のようです。清代の沈徳潜によって編纂された『古詩源』所収の長詩『猛虎行』(西晋の陸機作)に「渇不飲盗泉水/熱不息悪木陰」とあります。読み下すと、「渇すれども盗泉の水を飲まず/熱すれども悪木の陰に息わず」ということになります。 いくらのどが渇いても、「盗泉」という名前がついた源泉の水は飲まないし、いくら日が照って暑くても、悪木の下で休息しない、ということでしょう。このことから、瓜田李下(かでんりか)、瓜田之履(かでんのり)、李下之冠(りかのかん)などと同様に、疑いをもたれるような行動は避けるというように解釈されています。

 この悪木とは何でしょうか。『管子』に「それ士は耿介(こうかい)の心をいだきては、悪木の枝に蔭せず、悪木なおこれを恥ず、況(いわん)や悪人と同じ処るおや」とあります。耿介は節操が堅く、世俗とはなじまないさまをいい、そうした心をいだく人とは、つまり君子のことでしょう。管子は戦国時代の覇者斉国の名宰相管仲の編纂ということになっていますが、その多くは戦国時代から漢代までの文士によって書き継がれきた
ようですから、後世の陸機は、それを踏まえて「熱不息悪木陰」としたのでしょう。で、悪木のことですが、中国では“枳”を悪木と考えていたようです。日本では「からたち」と読んでいますが、ミカン科の落葉低木のカラタチなのでしょうか。確かにとげが多くて、あまり近づきたくない植物なのですが。

 一方、「盗泉」のほうは、孔子と深い関係があります。盗泉は山東省泗水県にあるのだそうですが、孔子がこの地を訪れた際、のどが渇いたので水を飲みたいと思い、近くにある泉の水を飲もうとしたら、その泉の名前が「盗泉」であることを聞いて、飲むのを止めたという話から、後世まで広く知られるようになりました。

 原典は、説苑(前漢の劉向(りゅうきょう)編纂)の「邑、勝母と名づけて曾子入らず、水、盗泉と名づけて孔子飲まず、その声(な)を醜(に)くんでなり」です。前段の曾子とは孔子の弟子四哲の一人で、勝母という村を通ろうとしましたが、「母に勝つ」とは不孝の意味だから、その村を避けたということです。先生の教えどおり、「君子危うきに近寄らず」ということなのでしょう。日本では輪入道(わにゅうどう)という妖怪を避けるために、戸口に「此所勝母(このところしょうぼ)の里」と書いた札を下げたという地方があったそうですが、この故事を踏まえているようです。輪入道は孝行者なんでしょうね。

 しかし、盗泉と名付けられた泉や勝母と名付けられた村もいい迷惑です。自分でそう名乗ったわけでもないのに。何年か前に、自分の子に「悪魔」という名前を付けようとした人が、役所とトラブルになったことがありましたが、もし、この名が許可されていたら、『悪木盗泉』の伝から言えば、君子はこの子に近づいてはいけないのでしょうね。

 この夏、群馬県のおにしキャンプ場に行きましたが、漢字で書くと「鬼石」です。なかなか快適なキャンプ場でしたが、避けるべきだったのでしょうか。もっとも筆者である私は、君子ではないので、もともと避ける理由はないのですが。 『渇しても飲まず』ですが、飲まないで済ませることができるということは、本当に渇していたのでしょうか。砂漠を歩いていて、水筒の水がなくなり、しかもさらに一日中歩き続け、ようやく泉を見つけたら、名前が「盗泉」だからと言って飲まずに済ませられるものなのでしょうか。

 窮猿奔林(きゅうえんほんりん)という四字熟語があります。犬か何かに追われて切羽詰った猿は、身を助けるために林の中に入って、木も選ばすにかけ上るだろうという意味です。本意は、失業した者が、次の職業について贅沢を言っていられないということです。失業の経験のある筆者としても、盗泉より窮猿の方が身につまされます。


● 第 16 回 【跖狗吠堯】

忠犬の証明「跖狗吠堯(せきくはいぎょう)」

 06年の干支は戌年、つまり動物に例えると、犬年ということになるので、最初に犬に関係した四字熟語を紹介しましょう。私の収集している四字熟語は、現在8000以上に上っていますが、「犬」もしくは「狗」で検索すると三十数件ありました。ただし、これらすべてが必ずしも中国出典というわけでもなさそうなのですが、その中から表題のものを紹介します。

 「跖狗」とは「跖の犬」の意味で、「跖」とは孔子時代に存在したとされる大盗賊のことで、通称を「盗跖」といいます。「吠堯」は「堯に吠えつく」意で、「堯」とは中国古代伝説上の聖王・堯のことです。全体の意味は、泥棒の盗跖の飼い犬が、聖人としてあがめている堯に吠えつくのは、堯が悪人であるからではなく、盗跖に忠義を尽くそうとしただけだ。つまり、人にたとえれば、人はそれぞれ自分の仕える主人に忠を尽くすもので、善悪をわきまえて尽くすわけではない、ということになります。

 堯は中国でも神話時代の聖王ですから、少なくとも中国最古の王朝とされる夏(BC2070年ごろ成立)よりも前に存在していたと想定されますから、孔子(BC551〜479年)と同時代の盗跖の犬が到底、堯に吠えつくなんてことはできないわけですが、比喩的に言ったものでしょう。

 これでは余りにも話が矛盾していると思ってか、私のデータの中には「桀犬吠堯(けつけんはいぎょう)」という四字熟語もあります。もちろん、「桀」とは堯が王位を禅譲した相手です。ただ、表題の「跖狗吠堯」と比べると、面白みが欠けることは否めないですね。表題は、大泥棒と聖王との対比が一層面白くなっているわけなので。。 ところで、跖狗吠堯は、史記でも取り扱っています。第3回「狡兎走狗」でも紹介した淮陰侯韓信の謀反に関連した話で、この四字熟語がでてきます。楚の項羽と漢の劉邦との戦いで、劉邦が苦境に陥ったとき、劉邦の臣下だった韓信に自立を進言したのが、韓信の幕僚、かい通(「かい」は草冠に朋、その右隣に立刀、「リ」のような形を添えた字です)でした。 項羽が垓下の戦いで敗れて戦死すると、韓信は謀反の罪を得て、一族ともども処刑されてしまいます。刑場に引かれていくとき、「あのとき、かい通の言うことを聞いておけば良かったのに」と愚痴ってしまいます。その話を聞いた劉邦は、かい通を引き出し、「韓信に謀反を勧めたのは本当か」と詰問します。かい通は「本当です」と正直に答えます。激怒した劉邦は「釜ゆでにしてしまえ」と命じますが、かい通は「跖狗吠堯」というのです。 続けて、「私が淮陰侯に謀反を勧めたのは、当時は淮陰侯の部下だったからです。あのころは、私は陛下(劉邦は高祖帝となっていた)の部下ではありませんでした。あのころはだれでも天下を望もうとしていました。それだけで謀反人として処刑するなら、ほとんどの者を処刑しなければならなくなります」と主張します。つまり、かい通は劉邦にとっては謀反人かもしれないが、韓信に対しては忠義の部下であったということになるわけです。

 この話を聞いて、劉邦はあっさりと許してしまいます。当時、謀反の罪で多くの重臣が処刑されていましたから、劉邦としても小物のかい通ぐらいなら目をつぶってもよいかと考えたのでしょうか。しかし、それにしても劉邦の度量の大きさが表れているようです。四字熟語が人の命を救ったわけですから、なんとなくほっとする話です。

 ただ、この四字熟語を悪用されては困ります。会社の命令だからとか、会社のためにするのだからとか、何かと理屈をつけて反社会的なことがまかり通ってしまうようでは、社会そのものが崩壊しかねません。


● 第 17 回 【君子豹変】

正反対に理解されている「君子豹変(くんしひょうへん)」

 「彼は、日ごろは冷静沈着な人なんだが、いったん車のハンドルを握った途端、『君子は豹変す』で、ものすごく乱暴な運転をするんだよ」という具合に、考えや対応を急に変えてしまうという悪い意味で使われる場合が多いようです。

 君子豹変は儒教の四書五経の一、易経(えききょう)が出典です。易経は、簡単にいえば、古代の占いの経典(けいてん)で、現在でも占いの根本原典であると言われています。易では陰陽2種(横の画「―」を陽、「--」を陰)の爻(こう)を3つずつ使ってできる8種類の組み合わせを八卦(はっけ)と言っています。実際の易では、この八卦を2組使いますから、8×8で64の卦になります。

 その六十四卦の一に「君子豹變。小人革面。征凶。居貞吉」というのがあるわけですが、読み下し文は「君子は豹変す。小人は面を革(あらた)む。征かば凶。居りて貞しければ吉」となります。後半は、「出かけるのは凶、家に居て大人しくしているのは吉」という意味でしょうから、占いらしい内容です。ところが前半は占いらしくない内容ですね。何か人生訓のような内容です。

 君子豹変は冒頭に紹介したような、態度を急変させる卑怯なふるまいという意味ではなかったのです。「豹変」というのは、ヒョウの毛が抜け替わることです。「君子豹変」は、ヒョウが鮮やかに変身していくように、君子は自分の考えや行動に過ちがあったなら、素直に反省して改めることに躊躇(ちゅうちょ)しない、という心の内部の変化を言っています。

 それに対して「小人革面」は、小人(しょうじん)が過ちに気付いても、というより他人から過ちを指摘されても、表面だけは反省したように見せるだけで、本心は少しも悔い改めてはいないということでしょう。ここでは君子と小人を際立てる形で、君子たるべき態度は、どうあるべきかを示しているのです。

儒教はある意味では、君子になることを理想とする宗教ないしは哲学とも言えますから、易経が儒教の根本経典の一つにされている理由なんでしょうね。易経では「大人虎變(たいじんこへん)」という四字熟語も出てきます。同じ意味といってよいでしょう。

 ところで、「君子」とはどういう人を指すのでしょうか。徳の高いりっぱな人という意味では、「大人」と同じ意味でしょう。「大人」を儒教では「君子」というのかもしれませんね。両者の反対語が、ともに「小人」ということからも、それが正当のように思われます。しかし、「君子」は単なる「大人」ではありません。やはり、儒教の信奉者ということが最低条件でなければならないのでしょう。

 君子たる条件を四字熟語から見てみましょう。

君子九思(くんしきゅうし)
君子が学を修め道を志すのに日常注意すべき事項で、視るには「明」を思い・聴くには「聡」を思い・色には「温」を思い・貌には「恭」を思い・言には「忠」を思い・事には「敬」を思い・疑わしきことは「問」わんと思い・忿(いか)りには「難」を思い:得ることを見ては「義」を思う
君子三畏(くんしさんい)
天命・大人・聖人の言葉に対して畏(おそ)れること
君子三戒(くんしさんかい)
若いときには色欲を戒め、壮年時代には人と争うことを戒め、老年になったときは欲が深くならないように自戒する
君子三思(くんしさんし)
一は若いときに学問をすることを思い、二は老いてからは教えることを思い、三は有すれば施すことを思う
君子三端(くんしさんたん)
文士の筆端、武士の鋒端、弁士の舌端を三端といい、これらとは争わない
君子三楽(くんしさんらく)
一は父母が元気で兄弟が無事であること、二は誰に対しても恥ずかしい後ろ暗さがないこと、三は優れた人を教育すること
君子不器(くんしはきならず)
君子は単なる専門家であってはならない
君子懐徳(くんしはとくをおもう)
立派な人間は、徳を修め磨くことを心掛ける
君子殉名(くんしはなにじゅんず)
君子は名に殉(したが)う。名誉を重んじる
君子慎独(くしんしはひとりをつつしむ)
人前だけでなく独りのときも身を慎む
君子万年(くんしばんねん)
徳の高い人は長寿である あくまでも、そうありたいという目標なんでしょうね。

● 第 18 回 【屠龍之技】

無駄も有用というべきか「屠龍之技(とりょうのぎ)」

 「屠龍」とは、龍を屠(ほふ)るということですから、「屠龍之技」とは龍を殺す技ということになります。実在しない龍を退治するという技術などというものがあったとしても、使い道がないわけですから、全く無駄なことになります。実際の世には役に立たない技、つまり無用の技芸という意味になるようです。

 『荘子』(書物の名。「そうじ」と読みます)に「朱泙漫(しゅひょうまん)、龍を屠(ほう)ることを支離益に学ぶ。千金の家を尽くし、3年にして技成りて、その功を用いるところなし」とあります。朱泙漫とか支離益とか、具体的な人物の名前が出てくるので、本当の話のようにも思えるのですが、龍は空想上の動物に過ぎないのですから、本当の話ではないようにも思われます。大体、家産を失うほどのお金をかけて、3年にして技が成ったと言うのですが、それをどのようにして証明したのでしょうか。殺す相手の龍は実在しないのですから、実際に仕留めようもないはずです。

 あるいは剣術家とされる朱泙漫が、仙術使いの支離益に催眠術やマインドコントロールにかかって、龍を殺すという疑似体験をしただけかもしれません。仙術を習う場合、普通は授業料などは取らないのが普通です。本当の仙人というのは無欲なはずですし、お金を全く必要ともしないはずですから。朱泙漫は山師に引っかかっただけのでしょうか。

 そう考えてくると、この話は荘子(人名は「そうし」と読みます。紀元前369〜286年)自身、もしくは荘子の名で何人かが創作したようにも思えます。難解なものが多い四字熟語の中では、かなり分かりやすいですね。全く無駄な技というのは。ただ、そうだとすると、ちょっと変な感じがします。荘子といえば、老子とともに道教の始祖とも言われている人です。特に荘子は「無為自然」をモットーとしてきた思想家です。屠龍之技を学んだことについて、無駄だとか、無益だとかを断罪するような人ではないように思えるからです。

 荘子が『荘子』を書く場合(ややこしい)、先行していた儒学に対するアンチテーゼということがあったはずです。屠龍之技のような、ちょっとした話も儒教を意識しないで語られることはなかったと思います。儒教は哲学であると同時に、政治学でもありました。聖王堯や舜あるいは周代を理想として、その政治の再現を望んでいたのですから。そういう面では「衣食足りて礼節を知る」というような、極めて功利主義的な側面が
見られます。屠龍之技を断罪するとしたら、むしろ儒家のほうがふさわしいとさえ思えます。

 ひょっとして荘子は、屠龍之技を反語的な意味で示したのではないでしょうか。「屠龍之技は無用なものだよ。確かにそうだが、それがどうした。しょせん、すべての技なんかそんなものだろうさ。儒教の教えなんかもね。昔の政治がうまくいっていたとしても、それが今も通用すると思っているなんか、無益・無用、むしろ害悪だよ」と言っているように思えるのは飛躍し過ぎた発想でしょうか。

 「無為」とは為(な)して捉われぬということでしょう。役に立つかどうか、それはどうでもいいことで、結果なんか考えずにやりたいことをやればいい。特に学問や芸術は、結果に捉われていたのでは、大成するものも大成しないだろう。いや、大成するかしないかはどうでもいいのだ、と屠龍之技という四字熟語を通して主張しているように思えます。

 現代は、なんでも資格の時代。よい大学に入るのも一つの資格、その上、いろいろな資格を取っておけば、一流の会社に入れる、あるいは高級官僚になれるのでは、ということばかりに捉われているように思われます。就職するにも大学だけでは不足だから、大学院にまで行くという資格万能の現代社会において、真の学問とは何か、現代人として身に付けて置かなければならない技とは何か、ということを、あらためて問いただしているようにも思えます。


● 第 19 回 【蜀犬吠日】

大気汚染で激しくなったか、「蜀犬吠日(しょくけんはいじつ)」

 「蜀犬吠日」は、訓読みすれば「蜀犬、日に吠える」となりす。蜀は昔の剣南、現在の四川省辺りですが、この地域は非常に湿度の高い土地柄で晴れることが少ないため、たまに太陽が見えると、犬が見慣れない太陽を怪しんで吠えるということです。

 この四字熟語は、一般的には唐代の詩人で名文家の柳宗元(りゅうそうげん。773〜819年)の書いた文章が出典だと言われていますが、「越犬吠雪(えっけんはいせつ)」のほうではないかと思います。越は大体、現在の浙江(せつこう)省辺りで、ほとんど雪の降らない地域なので、雪が降ると、日ごろ見慣れない雪に犬が吠えるという、柳宗元の実体験から出ているようです。また、蜀犬吠日を別な形で表現した「吠日之怪(はいじつのかい)」や、見ること少なければ怪しむことが多いという「少見多怪(しょうけんたかい)」も、柳宗元の文章が出典であるようです。

 唐代最大の名文家と言われた韓愈(かんゆ。768〜824年)は、「蜀中山高く霧重し、日を見るは時少し、日出るに至る毎に、即ち群犬疑いてこれに吠ゆるなり」という文章を残していますが、蜀犬吠日は、こちらが出典といったほうがよさそうです。韓愈も柳宗元も『韓柳』と並び称された唐代の名文章家ですが、日本では柳宗元のほうが人気があります。

 これらの四字熟語は、当初は見慣れないものに対する犬の奇異な行動を諷したものに過ぎなかったのですが、やがて犬の行動を人に置き換えて、見識の狭いことの例え[例えの第1段階とします]となります。さらに進んで、見識の狭い者が賢人の言動に対して不当な非難をすることを例えるもの[例えの第2段階とします]とされます。

 柳宗元は、弟子になりたいという韋中立(いちゅうりつ)という若者に出した断りの手紙の中で「蜀では雨が多く、たまに太陽が出ると犬が吠えるという話を友人から聞いたが、随分と大げさな話だと思っていた。ところが、越に行ったとき、珍しく雪が降り積もったものだから、犬が吠え叫び狂ったように走り回った。そんなことから、蜀で犬が太陽に吠えることも本当のことだと思うようになった。そんな犬のような人間も世間では数多くいるのではないか」と書いています。ここでは例えの第1段階にとどまっていますね。

 例えの第二段階に発展させたのは、韓愈のほうのように思われます。韓愈は唐代に儒教を復興させようとした、かなり過激な思想家でした。唐の11代皇帝憲宗(在位805〜20年)が宮中に仏舎利を祭ろうとした際、彼は『論仏骨表』を書いて、過激な言葉でそれをやめさせようとします。敬虔な仏教徒だった憲宗は怒って、韓愈を地方の役所に左遷しまいます。このように儒教の復興を目指した韓愈は、仏教や道教を激しく攻撃していましたから、それを非難するような者に対して、蜀犬吠日という言葉を投げつけても不思議ではないように思われます。

 それにしても帝王の逆鱗に触れたのに、よく左遷(しかも地方とはいえ長官に就任)で済んだものです。帝王が法家や道教あるいは儒教の信奉者なら、悪くすると謀反の罪で一家眷属皆殺し、普通なら賜死(毒薬を賜る)というところで、運がよくても司馬遷のように宮刑でしょう。殺生を嫌う仏教徒の憲宗でよかったとも言えます。

 ところで、四川省は、本当にそんなに晴れの日が少ないのでしょうか。四川省や近隣の貴州省(蜀に含まれる)は、中国では日照時間が最も少ない地域だとされています。特に冬季がひどく、貴州省では1月の日照時間が、わずかに0.6時間に過ぎない年があったといいます。中国では今、急速に自動車の普及が高まっています。四川省でも100万台近い自動車が走り回るようになっていて、しかも環境対策が十分でない状況でしょうから、もともとの天候に排ガスが加わって、日照は唐代よりももっと悪い状態になっているのかもしれません。蜀犬吠日を愚人の不当な非難の例えなどと考えずに、環境問題として捉え直したほうがよいのかもしれません。


● 第 20 回 【胡蝶之夢】

夢は現(うつつ)か、現が夢か「胡蝶之夢(こちょうのうめ)」

 「胡蝶之夢」は、一般的には夢と現実の境が無分明なことを意味します。出典は荘子(そうし)の著書と言われる『荘子(そうじ)』で、荘子の思想を表す代表的な説話として著名です。

 昔々、荘周という人が蝶になった夢を見ました。ひらひらと空を舞って。胡蝶そのものだったので、心楽しく、気持ちが伸び伸びとしてきました。そして、遂に自分が人間の荘周であることがわからなくなり、胡蝶そのものに成り切ってしまいました。しかし突然、夢から覚めると、なんと自分が人間であることに驚き、しばし自分が胡蝶の夢の中で、荘周になっているのかとも感じられたというのです。ここから、「荘周之夢」という四字熟語が生まれますが、一般的には胡蝶之夢として知られています。

 この説話の中にある荘周とは荘子のことなので、つまり荘子の体験談という形をとっているわけです。荘子の根本的思想を端的に表す四字熟語として、「万物斉同(ばんぶつせいどう)」というのがありますが、これは万物はすべて等価値であるという意味です。この万物斉同の思想から考えると、「胡蝶之夢」も胡蝶だろうが、人間だろうが生きているということでは、たいした違いがあるわけではないという寓意を表していると思われます。夢も現も無分明なら、生死も無分明、ましてや同じ人間世界の貴賎など絶対的なものではなく、人間が勝手に決めた相対的なものに過ぎない。天子であろうが庶民であろうが、人生にとってそれ自体にはたいした意味があるわけではないということになるのでしょうか。

 胡蝶之夢を人生のむなしい例えとする説もありますが、少し違うように思えます。人生のむなしさを表す四字熟語としては、大臣にまで成り上がった一生涯の夢が、たかだか黄梁が炊き上がる間に過ぎなかったという「一炊之夢(いっすいのゆめ)」というのがあります。一炊之夢を違った四字熟語の表現としては、廬生之夢(ろせいのゆめ)、邯鄲之夢(かんたんのゆめ)、黄梁一炊(こうりょういっすい)、黄梁之夢(こうりょうのゆめ)があります。廬生は、その夢を見た人物の名、邯鄲はその夢を見た土地の名、黄梁は粟(あわ)のことです。 同工異曲に「槐安之夢(かいあんのゆめ)」というのがありますが、こちらも大臣まで出世した夢の話です。ただ、黄梁一炊とは異なり、人間世界の話ではなく、蟻(あり)の世界に招かれて槐樹の根元の地下の国での出世物語、しかも一晩かかっての夢ということになります。唐代の小説「南柯太守伝(なんか
たいしゅでん)」に書かれているところから、「南柯之夢(なんかのゆめ)」とも言われています。

 夢と現の無分明さを少しひねったものに、「役夫之夢(えきふのゆめ)」というのがあります。召使の男が、昼間は主人にこき使われていますが、寝ているときは王侯になっている夢を見ているので、昼の辛さの慰みになっています。一方、彼をこき使う主人のほうは、逆に寝ているときは召使としてこき使われる夢を見て悩んでいます。結局、主人のほうが、召使をこき使うのをやめることによって、召使も主人も救われるという話で、今回紹介した中では、最も好きな四字熟語です。


● 第 21 回 【百聞一見】

誰でも通用するわけじゃない「百聞一見」

 「百聞一見」は「百聞は一見に如(し)かず」を短縮した四字熟語です。何度も話を聞くより、自分の目で確かめた方がよく分かるという意味です。例えば、テレビを見たことがない人に百万言使って説明するよりも、黙って実際に実物を見せたほうがテレビの何たるかを分からせることができるでしょう。

 「群盲撫象(ぐんもうぞうをなず)」は、多数の盲人が手で象を撫でても、それぞれが象の一部を知るのみで、全体の姿を知ることはできないことから、凡人には大人物や大事業の一部しか分からない例えとしています。

 この二つの四字熟語は、視覚・聴覚・嗅覚(きゅうかく)・触覚・味覚という五感のうちで、視覚の優位性を表しているようです。ただし、誰が創作したのか知りませんが、「百思は一聞に如かず、百聞は一見に如かず、百見は一行に如かず」ということわざがあるそうです。「百思一聞」は、知恵のない人間がいくら考えても、知恵のある人に一言聞くほうがまし、「百見一行」は、何度も見るよりは1回でも実体験したほうがましというぐらいの意味なのでしょうか。

 ここでは五感に限定して考えましょう。「群盲撫象」という四字熟語は使い方によっては目の不自由な方に対する侮辱ともなりかねないものですが、意味するところは本当にそうなのでしょうか。世界史の大航海時代、コロンブスの東インド諸島発見を契機に、新大陸には多くの冒険家が探検を行います。個々の冒険家は新大陸の極く一部にたどり着いたに過ぎませんから、それはまさに群盲撫象の状態です。現代のように、宇宙船から見れば、南北アメリカ大陸の姿が一見できるのですが、当時はそのような便利なものはなかったにもかかわらず、冒険家たちの情報が集積されることにより新大陸の全体像が次第に明らかになっていくのです。同様に、群盲撫象だって個々の情報を集めていけば、象の全体像ぐらいなら、すぐに明らかになるはずです。

 実は「百聞は一見に如かず」については「第9回秋高馬肥」のところで一度、触れています。それは漢書趙充国伝に、辺境の騎馬民族が反乱を起こそうとしている情報を得た老将軍・趙充国が、漢の皇帝に自分を将軍として現地に派遣して欲しいと願い出たときに発した言葉だったのです。趙充国は匈奴をはじめとする騎馬民族と長年戦ってきた歴戦の勇士であり、誰よりも、それぞれの騎馬民族の性格を熟知している人でした。

 趙充国には現地からの数